の新屋敷というのは今の千駄ヶ谷の一部で、そこには大名の下屋敷や、旗本屋敷や、小さい御家人などの住居もあるが、うしろは一面の田畑で、路ばたに大きい竹藪や草原などもあって、昼でも随分さびしいところとして知られていた。そこへ日が暮れてから出向くのは少し難儀だとも思ったが、これも商売である。まして十五両という大きい商いをするのであるから、喜右衛門も忌応《いやおう》は云っていられなかった。勿論、ほかに奉公人もあるが、高値《こうじき》の売り物をかかえて武家屋敷へ出向くのであるから、主人自身がゆくことにして、喜右衛門は日の暮れるのを待っていた。
 きょうは朝から薄く陰《くも》って、あしたの名月をあやぶませるような空模様であったが、午後からの雲は色がいよいよ暗くなって、今にも小雨がほろほろと落ちて来そうにもみえた。旧暦の八月なかばで、朝夕はめっきりと涼しくなったが、きょうは袂涼しいのを通り越して、単衣《ひとえ》の襟が薄ら寒いほど冷たい風がながれて来た。天竜寺の暮れ六ツをきいて喜右衛門は夕飯をくっていると、昼間の草履取りが再び野島屋の店さきに立った。
「あの辺はさびしいところではあり、路が暗い。屋敷をさ
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