や障子もよほど破れているのが眼についた。昼間来た主人の侍のすがたとは打って変って、勝手都合の頗《すこぶ》るよくないらしい屋敷のありさまに、喜右衛門は少し顔をしかめた。このあばら家の体たらくでは、あと金の十四両をとどこおりなく払い渡してくれればいいがと、一種の不安を感じながら控えていると、奥からは容易に人の出てくる気配もなかった。雨はしとしとと降りつづけて、暗い庭さきでは虫の声がさびしくきこえた。喜右衛門はだんだんに待ちくたびれて、それとなく催促するように、わざとらしい咳《しわぶき》を一つすると、それを合図のように縁側に小さい足音がひびいて、明けたてのきしむ障子をあけて来る音があった。
 それは十三四歳の茶坊主で、待たせてある喜右衛門に茶でも運んで来たのかと思うと、かれは一向に見向きもしないで、床の間にかけてある紙表具の山水《さんすい》の掛物に手をかけた。それを掛けかえるのかと見ていると、そうでもないらしかった。かれはその掛物を上の方まで巻きあげるかと思うと、手を放してばらばらと落とした。また巻きあげてまた落とした。こうしたことを幾たびも繰り返しているので、喜右衛門も終《しま》いには見かねて声をかけた。
「これ、これ、いつまでもそんなことをしていると、お掛物が損じます。はずすならば、わたくしが手伝ってあげましょう」
「黙っていろ」と、かれは振り返って睨んだ。
 喜右衛門はこの時初めてかれの顔を正面から見たのである。茶坊主は左の眼ひとつであった。口は両方の耳のあたりまで裂けて、大きい二本の牙《きば》が白くあらわれていた。薄暗い灯のひかりでこの異形《いぎょう》のものを見せられたときに、五十を越えている喜右衛門も一途《いちず》にあっ[#「あっ」に傍点]とおびえて、半分は夢中でそこに倒れてしまった。
 暫くして、ようやく人心地がつくと、その枕元には三十五六の用人らしい男が坐っていた。かれは小声で訊《き》いた。
「なにか見たか」
 喜右衛門はあまりの恐ろしさに、すぐには返事が出来なかった。用人はそれを察したようにうなずいた。
「また出たか。なにを隠そう、この屋敷には時々に不思議のことがある。われわれは馴れているのでさのみとも思わぬが、はじめて見た者はおどろくのも道理《もっとも》だ。かならず此の事は世間に沙汰してくれるな。こういうことのある為か、殿さま俄かに御不快で休んでいられるから、鶉の一件も今夜のことには行くまい。気の毒だが、一旦持ち帰ってくれ」
 かれはまったく気の毒そうに云った。こんな化け物屋敷に長居はできない、帰ってくれと云われたのを幸いに、喜右衛門はうずら籠をかかえて怱々《そうそう》に表へ逃げ出した。雨はまだ降っている。自分のうしろからは何者かが追ってくるように思われるので、喜右衛門は暗いなかを一生懸命にかけぬけて、新宿の町の灯を見たときに初めてほっ[#「ほっ」に傍点]と息をついた。
 妖怪におびやかされたせいか、冷たい雨に濡《ぬ》れたせいか喜右衛門はその晩から大熱を発して、半月ばかりは床についていた。八月の末になって彼はだんだんに気力を回復すると、鶉の鳴き声が少し気にかかった。かの鶉は自分の命よりも大切にかかえて戻って、別条なく店の奥に飼ってあるが、その鳴き声が今までとは変っているようにきこえるので、喜右衛門は不思議に思った。自分の病中、奉公人どもの飼い方が悪かったので、あたら名鳥も声変りしたのではないかと、念のためにその鶉籠を枕もとへ取り寄せてみると、鳥はいつの間にか変っているのであった。喜右衛門はびっくりした。かれは一つ目の妖怪にもおびやかされたが、十五両の鶉が二足三文《にそくさんもん》の駄鶉に変っているにも又おびやかされた。病中に奉公人どもが掏り替えたのか。それとも細井の化け物屋敷で殆ど気を失ったように倒れているあいだに、素早く掏りかえられたのか。二つに一つに相違ないと喜右衛門は判断した。
 万一それが奉公人の仕業《しわざ》であるとすると、迂闊に口外することが出来ないと思って、喜右衛門はそのままに黙っていた。九月になって、かれはもう床払いをするようになったので、早速新屋敷へたずねて行って見ると、見おぼえのある古屋敷はそこにあった。しかし其処には住んでいる人がなかった。近所で訊くと、そこには細井という旗本が住んでいたが、なにかの都合で雑司ヶ谷の方へ屋敷換えをして、この夏から空《あき》屋敷になっていることが判った。もう疑うまでもない。悪者どもが徒党して、喜右衛門をこの空屋敷へ誘い込んで、不思議な化け物をみせて嚇しておいて、持参のうずらを奪い取ったのである。一両の手付けを差し引いても、かれは十四両の損をさせられたのであった。この時代に十両以上の損は大きい。喜右衛門は蒼くなった。
「訴え出れば、引き合いが面倒だ。泣き寝入りするの
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