来たのであった。その血祭りという異人の首は、鮮血に染《し》みたままで油紙のうえに据えられているのであった。度胸のいいのを自慢にしていた長左衛門も、だんだんに顔の色をかえて、何者にか押し付けられるように、その頭をおのずと下げた。もうこうなっては七分の弱味である。そのあいだ二、三度の押し問答はあったものの、所詮《しょせん》かれは攘夷家の請求する三百両の半額を謹んで差し出すのほかはなかった。侍共は渋々納得して帰った。帰るときに、形代であるから此の首を置いてゆくと云ったが、番頭は平《ひら》にあやまって頼んで、この恐ろしい質物《しちもつ》を持って帰ることにして貰った。
この報告をうけ取って、半七は溜息をついた。
「ふうむ。そりゃあ初耳だ。おれはちっとも知らなかった。だが、丸井ではなぜそれを黙っているのかな。そういうことがあったら、この時節柄、きっと届け出ろということになっているんだが……。わからねえ奴らだな」
「それがね、兄さん」と、お粂は更に説明を加えた。「その浪人たちが引き揚げるときに、おれ達の企ては中途で洩れては一大事だから、今夜のことは決して他言するな。万一これを洩らしたら同志の者どもが押し寄せて来て、主人をはじめ一家内をみなごろしにするから然《そ》う思えと、さんざん嚇かして行ったんですとさ。それだから丸井の家《うち》では店じゅうのものに口止めをして、誰にも話さないことにしていたんですよ」
「それをおまえが又どうして知った」
「そりゃあ神田の半七の血を分けた妹ですもの」
「ふざけるな。まじめに云え。御用のことだ」
丸井の秘密をお粂が知っているにはこういうわけがあった。丸井の店の初蔵という若い者がお粂のところへ時々に遊びにくるので、お粂は飛鳥山の花見に加入のことを頼むと、初蔵は一旦承知して帰ったが、きょうの午過ぎになって急に断わりに来た。かれは師匠に怨まれるのを恐れて、ゆうべの出来事をいっさい打ちあけた。何分にもこの矢先きでは店を出にくいから、かならず悪く思ってくれるなと、彼はしきりに云い訳をして帰った。単に違約の云い訳のためならば、まさかそんな大袈裟《おおげさ》な嘘はつくまい。これはきっとほんとうのことに相違ないとお粂は云った。半七もそう思った。
しかしこのことが自分の口から洩れたと知れては、自分も迷惑、初蔵も迷惑するであろうから、兄さんに如才《じょさい》もある
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