いよいよ赫《かっ》と逆上したらしい。彼女は蒼ざめた顔にふりかかる散らし髪をかきあげながら、亭主の前へ手をついた。
「まことに申し訳ありません。きっとお詫びをいたします」
 切り口上にこう云ったかと思うと、かれは跣足《はだし》で表へとび出した。その血相《けっそう》が唯ならないと見て、居あわせた人達もあとから追って出たが、もう遅かった。大通りの向うは高輪《たかなわ》の海である。あれあれといううちに、女房のうしろ姿は岸から消えてしまった。
 由五郎は今さら自分の気早を悔んだが、これも遅かった。やがて引き揚げられた女房の死体は、わが子の死体と枕をならべて、狭い六畳に横たえられた。妻と子を一度にうしなった由五郎は、自分も魂のない人のように唯黙って坐っていた。相長屋の八、九人があつまって来て、残暑のまだ強い七月の夜に二つの新らしい仏を守っていた。
 その通夜《つや》の席で、一軒置いた隣りの紙屑屋の女房がこんなことを云い出した。この女房は四、五日まえに七つになる男の児を亡《うしな》ったのであった。
「ほんとうに判らないもんだわねえ。うちの子供が歿《なくな》りました時には、ここのおかみさんが来て、いろ
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