になった。忙がしい師匠は舞台を一応見まわって、それから楽屋へ降りて来た。
「もし、みんな支度は出来ましたか。舞台の方はいつでもようござんすよ」
「はい。こっちもよろしゅうございます」
おこよは四人を呼んで鬘をかぶせようとすると、そのなかで奴を勤めるおてい[#「てい」に傍点]という子が見えなかった。
「あら、おていちゃんはどうしたんでしょう」
みんなもばらばら起《た》っておていの姿を見付けに行った。おていは今年九つで、佐久間町の大和屋という質屋の秘蔵娘であった。踊りの筋も悪くないのと、その親許が金持なのとで、師匠はこんな小さい子供の番組を最初に置かずに、わざわざ深いところへ廻したのであった。おていは下膨《しもぶく》れの、眼の大きい、まるで人形のような可愛らしい顔の娘で、繻子奴《しゅすやっこ》に扮装《いでた》ったかれの姿は、ふだんの見馴れているおこよすらも思わずしげしげと見惚《みと》れるくらいであった。そのおていちゃんが行方不明になったのである。
勿論、楽屋にはおてい一人でない。姉のおけい[#「けい」に傍点]という今年十六の娘と、女中のお千代とおきぬと、この三人が附き添って何かの世話をしていたのである。母のおくま[#「くま」に傍点]は正月からの煩《わずら》いで、どっと床に就いているので、きょうの大浚いを見物することの出来ないのをひどく残念がっていた。父の徳兵衛は親類の者四、五人を誘って来て二階の正面に陣取っていた。姉も女中たちも、さっきからおていのそばに付いていたのであるが、前の幕があいた時にそれを見物するために楽屋を出て、階子《はしご》のあがり口から首を伸ばしてしばらく覗いていた。その留守の間におていは姿を隠したのであった。しかし此の三人の女のほかに、楽屋には他の踊り子たちもいた。手つだいや世話焼きの者共も大勢押し合っていた。そのなかでおていは何処へ隠されたのであろう。三人もあわてて二階の見物席を探した。便所をさがした。庭をさがした。徳兵衛もおどろいて楽屋へ駈け降りて来た。
繻子奴の姿が見えなくては幕をあけることが出来ない。そればかりでなく、楽屋で踊り子の姿が突然消えてしまっては大変である。師匠の光奴も顔の色をかえて立ち騒いだ。内弟子もほかの人達も一度に起って家《うち》じゅうを探し始めたが、繻子奴の可愛らしい姿はどこにも見付からなかった。なにをいうにも狭いところに大勢ごたごたしているのと、他の人達はみな自分たちが係り合いの踊り子にばかり気を配《くば》っていたのとで、おていがいつの間にどうしたのか誰も知っている者はなかった。姉と二人の女中とが当然その責任者であるので、かれらは徳兵衛から噛み付くように叱られた。叱られた三人は泣き顔になって其処らをあさり歩いたが、おていは何処からも出て来なかった。
「どうしたんだろう」と、徳兵衛も思案に能《あた》わないように溜息をついた。
「ほんとうにどうしたんでしょうねえ」と、光奴も泣きそうになった。
もうこうなっては、叱るよりも怒るよりも唯その不思議におどろかされて、徳兵衛もぼんやりしてしまった。いかに九つの子供でも、すでに顔をこしらえて、衣裳を着けてしまってから、表へふらふら出てゆく筈もあるまい。帳場にいる人達も繻子奴が表へ出るのを見れば、無論に遮り止める筈である。外へも出ず、内にもいないとすれば、おていは消えてなくなったのである。
「神隠しかな」と、徳兵衛は溜息まじりにつぶやいた。
この時代の人たちは神隠しということを信じていた。実際そんなことでも考えなければ、この不思議を解釈する術《すべ》がなかった。神か天狗の仕業《しわざ》でなければ、こんな不思議を見せられる道理がない。師匠もしまいには泣き出した。ほかの子供も一緒に泣き出した。この騒ぎが二階にもひろがって、見物席の人達もめいめいの子供を案じて、どやどやと降りて来た。華やかな踊りの楽屋は恐怖と混乱の巷《ちまた》となった。
「きょうのお浚いはあんまり景気が好過ぎたから、こんな悪戯《いたずら》をされたのかも知れない」と、天狗を恐れるようにささやく者もあった。
そこへ来合わせたのは半七であった。彼も師匠から手拭を貰った義理があるので、幾らかの目録づつみを持って帳場へ顔を出すと、丁度その騒動のまん中へ飛び込んだのであった。半七はその話を聞かされ眉を寄せた。
「ふうむ。そりゃあおかしいな。まあ、なにしろ師匠に逢ってよく訊《き》いてみよう」
奥へ通ると、かれは光奴と徳兵衛とに左右から取り巻かれた。
「親分さん。どうかして下さいませんか。あたしはほんとうに大和屋の旦那に申し訳ないんですから」と、光奴は泣きながら訴えた。
「さあ、どうも飛んだことになったねえ」
半七も腕をくんで考えていた。彼はおていの可愛らしい娘であることを知っているので、
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