なったが、席はおのずと白らけて来て、談話《はなし》も今までのように弾《はず》まなかった。紋七が折角の心づくしも仇《あだ》になって、三人はなんだか気まずいような顔をして別れることになった。
四ツ(午後十時)すこし前に紋作と冠蔵の二人はここを出た。ふたりともに可なりに酔っていた。紋七はあとに残って今夜の勘定をして、それから店の帳場へ寄って、稼業柄だけに愛嬌ばなしを二つ三つして、おかみさんや女中たちを笑わせているところへ、頬かむりをした一人の男が店口へつい[#「つい」に傍点]とはいって来た。
「紋作はこっちに来ていますかえ」
「たった今お帰りになりましたよ」と、女中のひとりが答えた。
それを十分聞かないで、男は消えるように出て行った。それから又すこししゃべって、店では提灯を貸してやろうと云うのを断わって、紋七もほろよい機嫌でここを出ると、上野の山に圧《お》し懸かっている暗い空には星一つみえなかった。不忍《しのばず》の大きな池は水あかりにぼんやりと薄く光って、弁天堂の微かな灯が見果てもない広い闇のなかに黄いろく浮かんでいた。寒そうな雁《かり》の声も何処かできこえた。
「えろう寒うなった」
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