ので、彼は気色《きしょく》のわるいのを我慢して冠蔵の師直と無事に打ち合わせをすませた。六段目までの稽古が済んで、もう討ち入りまでは用がないと、あとへ引きさがって煙草をすっていると、うしろから自分の腰を強く蹴って通るものがあった。楽屋がせまいので、大勢の人のうしろを通るのは窮屈に相違ないが、あまりに強く蹴られて紋作は勃然《むっ》とした。
「誰だい」
振り返ってみると、それは衣裳をあつかっている定吉という者で、年はもう四十五六の、顔に薄あばたのある兎欠脣《みつくち》の男であった。かれはお浜の通っている衣裳屋の職人で、きょうも衣裳の聞き合わせのために楽屋へ来ているのであった。
「どうも済まねえ。なにしろ、この通り繍眼児《めじろ》のおしくらだからね」と、定吉は鼻で笑いながら云った。
この挨拶の仕方が面白くないのと、故意に自分を強く蹴ったように思われたのと、冠蔵に対する不快を今までこらえていた八つあたりとで、紋作は素直に承知しなかった。
「こみ合っているならこみ合っているように、気をつけて通れ、むやみに人を蹴飛ばす奴があるものか。楽屋に馬を飼って置きゃあしねえ」
「馬とはなんだ。手前こそ馬と
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