にも仇同士の魂がおのずと籠《こも》ったのであろうか。余りの不思議に気を奪われながらも、紋作は夢のように浄瑠璃を低く唄い出した。
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※[#歌記号、1−3−28]さしもに猛《たけ》き兵助が、切れども突けどもひるまぬ悪党、前後左右に斬りむすぶ、数《す》カ所の疵にながるる血潮、やいばを杖によろぼいながら、ええ口惜しや――。
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兵助の人形は文句通りに斬り立てられて、勝ち誇った敵は嵩《かさ》にかかって斬り込んできた。舞台の上の約束はともかくも、ここでは自分の人形を返り討ちにさせたくないので、紋作はわれを忘れて廊下へ駈け出して、手に持っている煙管をふり上げて仇の人形を力まかせに打ち据えると、水右衛門は額《ひたい》の真向《まっこう》をゆがませてばったり倒れた。兵助の人形も疲れたように同じく倒れてしまった。
この物音に眼をさました冠蔵は、自分のとなりに紋作の寝ていないのを怪しんで、これも蚊帳をくぐって出てみると、紋作は煙管をにぎって果《はた》し眼《まなこ》で突っ立っていた。その足もとには水右衛門の人形がころげていた。
「おい、紋作。どうした」
紋作は夢から醒めたように、自分の今みた人形の不思議な話をしたが、冠蔵は信用しなかった。いくら仇同士であろうとも、操《あやつ》りの人形に魂がはいって、敵と味方とが夜なかに斬り結ぶなぞという、そんな不思議が世にあろう筈がない。大方お前の寝ぼけ眼でなにかを見ちがえたのであろうと、冠蔵も始めのうちは唯わらっていたが、水右衛門の人形の額にゆがんだ打ち疵のあとを見つけると、彼は顔の色を変えた。自分の使っている人形の顔へ、なんの遺恨でこんな大疵をつけたのかと彼は紋作にはげしく食ってかかった。自分の人形が可愛さに、思わずその仇を手にかけたと紋作はしきりに云い訳をしたが、冠蔵はなかなか得心《とくしん》しなかった。
人形同士が斬り合ったという。いや、そんな筈がないという。所詮《しょせん》は双方が水掛け論で、ほかに証人がない以上、とても決着が付きそうもなかった。この捫著《もんちゃく》におどろかされて、ほかの者もだんだんに起きてきたが、この奇怪な出来事について正当の判断をくだし得るものは一人もなかった。ある者はそんな不思議がないとも限らないと云った。ある者は頭から馬鹿にしてその不思議を絶対に否認した。しかも紋作が水右衛門を打ったのは事実で、人形の額にたしかな証拠が残っていた。
冠蔵はそれを自分に対する紋作の嫉妬であると解釈した。初日以来、自分の人形の評判がよい。まるで生きているように働くと観客がみな褒めそやしている。紋作はそれを妬《ねた》んで、夜なかにそっと自分の人形を傷つけて、それを誤魔化すために途方もない怪談を作り出したに相違ないと認めた。しかし此れも取り留めた証拠はないので、彼もその場は胸をさすって人々の仲裁にまかせた。なにぶんにも旅先のことで直ぐに付けかえる首がないので、冠蔵は額のゆがんだ水右衛門の人形を今夜も舞台へ持ち出すよりほかなかった。うす暗い蝋燭の火で観客はそれを覚《さと》ったかどうだか知らないが、向う疵を負った人形を使っているということは何分にも気が咎めて、冠蔵はどうも気乗りがしなかった。それでも金谷宿佗住居の段に進んで来ると、云いしれない敵愾心《てきがいしん》が胸いっぱいに漲《みなぎ》って来て、かれの眼には残忍の殺気を帯びた。
赤堀水右衛門は石井兵助をあざむいて、だまし討ちにするのである。冠蔵はその仇になりすましてしまって、出来るかぎり憎々しく、出来る限り残酷に、相手の兵助をなぶり殺しにしてやろうと思って、その人形を手いっぱいに働かせた。相手の気込みがいつもと違っているのは、紋作の方にも悟られた。もともと旅興行で、さのみ熱心に勤めている筈でない冠蔵の人形が、今夜はたましいが籠ったように生きて働いている。しかもその人形を使っている冠蔵の眼には殺気を帯びている。紋作はなんだか油断が出来なくなって、自分の人形をなぶり殺しにしようと立ちむかって来る敵に対して、十分の身がまえをしなければならなくなった。人形と人形との刀は折れそうに激しく打ち合った。人形つかいの額には汗がにじみ出した。二人の眼はおのずと血走って来た。それに釣り込まれて、床《ゆか》の太夫も今夜は一生懸命に語った。観客は呼吸《いき》をのんで、その勝負の成り行きをうかがっていた。
いかにあせっても狂っても、当然の約束として、石井兵助は、敵に斬り伏せられなければならなかった。水右衛門の方には助太刀の敵役《かたきやく》があらわれて来た。これらの人形も三方から兵助を取り囲んで斬り込んでくるので、それを使っている紋作は自分が敵に囲まれているように焦躁《いらだ》ってきた。神経の興奮している彼
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