池の端へ行ったが、御屋敷の内証の使ということが腹にあるので、なるべく当人の出て来るのを待ってこっそり手渡しをしようと思っていたが、相手はなかなか出て来そうもないので、待ちくたびれて近所の蕎麦屋へ行って、寒さ凌ぎに熱い蕎麦をすすり込んでまた引っ返して来ると、もう夜はよほど更《ふ》けている。思い切って念のために帳場へ声をかけると、紋作は帰ったという。もう一度ここの家まで引っ返して来ると、やっぱりまだ帰らないという。使も根《こん》が尽きてそのまま帰ってしまったという訳だ」
「そうです、そうです。あの晩は紋作さんを訪ねてお使が二度来ました」と、お直はうなずいた。
「それはまあそれでいいんだが、当人の紋作は冠蔵と一緒に料理屋を出て、どっちも酔っている勢いで途中でまた喧嘩を押っ始めた。今度は誰も止める者がないので、喧嘩はいよいよ大きくなって、あわや腕ずくになろうとするところへ、提灯をさげた一人の侍が通った。くらやみで何か大きな声をして云い合っている者があるので、侍も思わず提灯をさし付けると、喧嘩の片相手は紋作だ。その侍は紋作の叔母さんの屋敷に奉公している黒崎半次郎という男で、下屋敷へもたびたび使に行くことがあるので、紋作とも顔を識《し》っている。それが丁度そこへ来合わせたのがいよいよ間違いを大きくする基《もと》で、もう逆上《のぼ》せている紋作はその侍の顔をみると、黒崎さんどうぞ拝借と云いながら、だしぬけにその腰にさしていた脇差を引っこ抜いて、相手の冠蔵に斬ってかかった。その黒崎という侍も吉原帰りで酔っている上に、あんまりだしぬけで呆気《あっけ》に取られていると、紋作は滅茶苦茶に相手を斬って突いて殺してしまった。黒崎はいよいよ驚いて止めようとすると、紋作ももう覚悟したのだろう。相手がよろけながら捉える手を振り払って、今度は自分の脇腹へ突っ込んでしまったので、黒崎も途方にくれた。これが相当の年配の者ならば又なんとか分別もあったろうが、年は若いし、おまけに吉原帰りであるから、武士たる者が自分の腰の物を人に奪われたとあっては申し訳が立たないので、あわててその脇差をひったくって、提灯を吹き消して一目散に逃げ出した。しかしそのままにはしておかれないので、あくる日すぐに下屋敷へ行って、紋作の叔母さんに内証でそのことを打ち明けると、叔母さんも驚いたがどうもしようがない。だんだん様子を探らせると
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