かい、冠蔵はかたきの赤堀水右衛門を使っていた。
 その初日の夜である。芝居の閉《は》ねたのはもう九ツ(夜の十二時)をすぎた頃で、一座のものは楽屋に枕をならべて寝た。田舎の小屋の楽屋ではあるが、座頭《ざがしら》格の役者を入れる四畳半の部屋があって、仲のいい紋作と冠蔵とはその部屋を占領して一つ蚊帳《かや》のなかに眠った。疲れ切っている二人は木枕に頭を乗せるとすぐに高いびきで寝付いてしまったが、およそ一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《いっとき》も経つかと思うころに紋作はふと眼をさました。建て付けの悪い肱掛《ひじか》け窓の戸を洩れて、冷たい夜風が枕もとの破れた行燈《あんどう》の灯をちろちろと揺らめかせている。信州の秋は早いので、壁にはこおろぎの声が切れぎれにきこえる。紋作は云いしれない旅のあわれを誘い出されて、遠い江戸のことなどを懐かしく思い出した。自分たちを置き去りにして土地の廓《くるわ》へ浮かれ込んだ一座の或る者を羨ましくも思った。
 木枕に押しつけていた耳が痛むので、かれは頭をあげて匍匐《はらば》いながら、枕もとの煙草入れを引きよせて先ず一服すおうとするときに、部屋の外の廊下で微かにかちりかちりという音がきこえた。紋作は鼠であろうと思って、はじめはそのまま聞き流していたが、やがて俄かに気がついた。せまい廊下には衣裳|葛籠《つづら》や人形のたぐいが押し合うようにごたごたと積みならべてある。疲れている一座のものは禄々にそれを片付けないでほうり出しているに相違ない。その何かを鼠に咬《かじ》られでもしてはならないと思い付いて、かれは煙管《きせる》を手に持ったままで蚊帳の外へくぐって出ると、物の触れ合うような小さい響きはまだ歇《や》まなかった。
 そのひびきを耳に澄ましながら、紋作はそっと出入り口の障子をあけると、かなり広い楽屋のうちにたった一つ微かにともっている掛け行燈のうす暗い光りで、あたりは陰《くも》ったようにぼんやりと見えた。そのうす暗いなかに更にうす暗い二つの影が、まぼろしのように浮き出しているのを見つけた時に、紋作は急に寝ぼけ眼《まなこ》をこすった。ふたつの影は石井兵助と赤堀水右衛門との人形で、それが小道具の刀を持って今や必死に斬り結んでいるのであった。その闘いは金谷宿《かなやじゅく》佗住居の段で、兵助が返り討ちに逢うところであるらしくみえた。非情の人形
前へ 次へ
全17ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング