半七捕物帳
人形使い
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)猿若町《さるわかまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)衣裳|葛籠《つづら》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日+向」、第3水準1−85−25]
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一
「年代はたしかに覚えていませんが、あやつり芝居が猿若町《さるわかまち》から神田の筋違外《すじかいそと》の加賀ツ原へ引き移る少し前だと思っていますから、なんでも安政の末年でしたろう」と、半七老人は云った。「座元は結城《ゆうき》だか薩摩《さつま》だか忘れてしまいましたが、湯島天神の境内《けいだい》で、あやつり人形芝居を興行したことがありました。なに、その座元には別に関係のないことなんですが、その一座の人形使いのあいだに少し変なことが出来《しゅったい》したんです。今時《いまどき》こんなことをまじめで申し上げると、なんだか嘘らしいように思召《おぼしめ》すかも知れませんが、まったく実録なんですからその積りで聴いてください。その人形使いのうちに若竹紋作と吉田冠蔵というのがありました。紋作はその頃二十三、冠蔵は二十八で、どっちも同じ江戸者でした。ああいう稼業には上方《かみがた》者が多いなかで、どっちも生粋《きっすい》の江戸っ子でしたから、自然おたがいの気が合って、兄弟も同様に仲がよかったんですが、それが妙なことから仇同士のような不仲になってしまって、一つ楽屋にいても碌々に口も利かないほどになったんです」
二人が不仲になった原因はこうであった。あやつり芝居が夏休みのあいだに、二人が一座を組んで信州路へ旅興行に出て、中仙道の諏訪から松本の城下へまわって、その土地の或る芝居小屋の初日をあけたのは、盂蘭盆《うらぼん》の二日前であった。狂言は二日《ふつか》がわりで、はじめの二日は盆前のために景気もあまり思わしくなかったが、二の替りからは盆やすみで木戸止めという大入りを占めた。その替りの外題《げだい》は「優曇華浮木亀山《うどんげうききのかめやま》」の通しで、切《きり》に「本朝廿四孝」の十種香から狐火《きつねび》をつけた。通し狂言の「浮木亀山」は、いうまでもなく石井兄弟の仇討で、紋作は石井兵助をつ
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