》ちたという噂が神田辺に伝わった。文化四年の大|椿事《ちんじ》におびえていた人々は又かとおどろいて騒ぎはじめた。加賀屋ではお元の夫の才次郎も母のお秀も眼の色を変えた。番頭の半右衛門が若い者ふたりを連れてすぐ深川へ駈け付けると、それは何者かが人さわがせに云い触らした虚報で、お元も女中たちも無事に家に遊んでいた。それが判って先ず安心して、半右衛門は主人の嫁の供をして帰ると、お秀も才次郎も死んだ者が蘇生《いきかえ》って来たように喜んだ。こうして加賀屋の一家が笑いさざめいている中で、嫁のお元の顔色はなんだか陰《くも》って、まだ青い眉のあとが顰《ひそ》んでいるようにも見えた。
お元の顔色の悪いのは、母や夫の眼にも付いたが、別に深く注意する者もなかった。加賀屋はここらでも草分け同様の旧家で、店では糸や綿を売っているが、主人の才兵衛は、八、九年前に世を去って、ことし二十三の才次郎がひとり息子で家督を相続していた。嫁のお元は夫とは三つちがいの二十歳《はたち》で、十八の冬からここへ縁付いて来て、あしかけ三年むつまじく連れ添っていた。かれは武州|熊谷在《くまがやざい》の豪農の二番娘で、千両の持参金をかか
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