隠れ場所が見あたらないので、唯その挙動を遠目にうかがうばかりで、かれらの低い声は半七の耳にとどかなかった。そのうちに談判はどう間違ったのか知らないが、男の声は少しあらくなった。
「じゃあ、どうも仕方がねえ。俺あこれから加賀屋へ行って、おかみさんに直談《じきだん》するだ」
「馬鹿な」と、女はあわててさえぎった。「その位ならこんなに訳を云って頼みやしないじゃないか。なんぼ何でもあんまりだよ。そんな約束じゃない筈だのに……」
女はくやしそうに震えていた。男はせせら笑った。
「それはそれ、これはこれだよ。だから、おかみさんに訳を話して……。二人でどこへでも行こうじゃねえか」
「そんなことが出来るもんかね」と、女は罵るように云った。
こうした押し問答が更に二、三度つづいたかと思うと、もう堪え切れない憤怒が一度に破裂したように、女の鋭い叫び声がきこえた。
「畜生。おぼえていろ」
彼女は帯のあいだから刃物を取り出したらしい。相手の男も不意におどろいたらしいが、半七もおどろいた。彼はすぐに駈けて行って、男を追いまわしている女の利き腕を取り押さえた。女は剃刀《かみそり》を持っていた。
「おい、お鉄
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