は加賀屋一家の平和を破るような材料は一つも見いだされなかった。店も相変らず繁昌していた。
 その嫁が深川の祭礼を見物に行って、その留守に永代橋墜落の噂が伝わったのであるから、加賀屋一家が引っくり返るように騒いだのも無理はなかった。それが無事と判って、また跳《おど》りあがって喜んだのも当然であった。しかし其の翌日になっても、お元の顔色の暗く閉じられているのが家内の者に一種の不安を感じさせた。とりわけて姑のお秀が心配した。
「お鉄や。ちょいと」
 かれは女中のお鉄を自分の居間へよんで、小声で訊《き》いた。
「あの、お元はきょうもなんだか悪い顔付きをしているようだが、どうかしましたかえ。お医者に診《み》て貰ったらどうだと先刻《さっき》も勧めたんだけど、別にどこも悪いんじゃないと云う。お前はきのう一緒に出て行って別になんにも思い当ることはありませんでしたかえ」
「はい。別になんにも……」と、お鉄は躊躇《ちゅうちょ》せずに答えた。「わたくしもお霜さんも始終御一緒に付いて居りましたが、なんにも変ったことは無かったように存じます。尤《もっと》も橋が墜ちて大勢の人が流されたという噂をお聞きになりました時には、真っ蒼になって震《ふる》えておいででございました」
「そりゃあ無理もありませんのさ」と、お秀もうなずいた。「それが噂とわかって、お前さん達の無事な顔を見るまでは、わたしも気が気でなかったくらいですから……。それにしても今日になってもまだ蒼い顔をしていて、けさの御膳も碌に喰べてなかったというから、わたしもなんだか不安心でね。だが、それに付いていたお前がなんにも知らないと云うようじゃあ、別に変ったことがあった訳でもあるまい。人ごみの場所へ行って、おまけにそんな噂を聴かされたので、血の道でも起ったのかも知れない。気分でも悪いようならば、二階へでも行ってちっと横になっているように、お前から勧めたらいいでしょう」
「はい、はい、かしこまりました」
 お鉄は丁寧に会釈《えしゃく》をして、主人の前をさがった。おなじ奉公人でも嫁の里から附き添って来た者であるから、主人の方でも幾分の遠慮があり、奉公人の方でも特別に義理堅くしなければならなかった。したがって里方から嫁入り先へ附き添ってゆくということは、どの奉公人も先ず忌《いや》がるのが習いで、もちろん普通よりも高い給金を払わなければならなかった。
前へ 次へ
全20ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング