内をのぞくと、小さい机は横さまに傾いて倒れて、筆や筆立や硯《すずり》のたぐいが散乱しているなかに、宗匠の其月はすこし斜めに仰向けに倒れていた。かれの半身はなま血に塗《まみ》れて、そこらに散っている俳諧の巻までも蘇枋《すおう》染めにしているので、惣八は腰がぬけるほどに驚いた。かれは這うように表へ逃げ出して、近所の人を呼び立てた。こういうわけで、惣八は第一の発見者である係り合いから、町内の自身番に留められていろいろの詮議をうけたが、彼はこの以外にはなんにも知らないと申し立てた。
 この椿事が夜なかに起ったのでないのは、主人の部屋にも女中部屋にも寝床が敷いてないのを見ても察せられた。其月は机のまえに坐って、朱筆を持って俳諧の巻の点をしているところを、うしろからそっと忍び寄って、刃物でその喉を斬った。おどろいて振り向くところを、更にその頸筋を斬ったらしい。其月の死にざまは先ずそれで大抵わかったが、お葉はどうして死んだのか、ちょっと見当がつかなかった。自分で身を投げたのか、他人《ひと》に投げ込まれたのか、それすらも判らなかった。池から引き揚げられた彼女の死骸には傷のあとも見いだされなかった。
 家内に紛失物もないらしいのを見ると、この惨劇が物取りでないこともほぼ想像された。主人の其月もまだ老い朽ちたという年でもないから、ひとり者の主人と若い奉公人とのあいだに、近所で噂するような関係があったとすれば、なにかの事情から、お葉が主人を殺害して、自分も身を投げて死んだものと認められないでもない。ほかに情夫《おとこ》でもあって、お葉が主人を殺したのならば、当人が自滅する筈はあるまい。あるいは何者かが其月を殺し、あわせてお葉を池のなかへ投げ込んだのかも知れない。下手人《げしゅにん》が手をおろさずとも、お葉がおどろいて逃げ廻るはずみに、自分で足をすべらして転《ころ》げ落ちたのかも知れない。しかし表の戸も明けてあり、寝床も敷いてないのであるから、それが宵のうちの出来事らしく思われるにも拘らず、近所隣りでこれほどの騒ぎを知らなかったというのは少し不思議であるが、大事件が人の知らない間に案外|易々《やすやす》と仕遂げられた例はこれまでにもしばしばあるので、検視の役人たちもその点にはさのみ疑いを置かなかった。ただ、其月を殺したのはお葉の仕業《しわざ》か、あるいは主人も奉公人も他人の手にかかったのか、この事件の疑問は専らその一点に置かれているので、水にぬれたお葉の死骸は念を入れて検《あらた》められたが、別に手がかりとなるようなものも見いだされなかった。しかしその死骸が水を飲んでいるのをみると、息のあるうちに沈んだことだけは確かめられた。
「どうでしょう。この池を掻掘《かいぼ》りさせるわけには行きますまいか」と、半七は云った。
 池の底にどんな秘密がひそんでいないとも限らないので、役人たちもすぐに同意した。人足どもを呼びあつめて、師走《しわす》の寒い日にその池の掻掘りをはじめると、水の深さは一丈を越えていて、底の方から大小の緋鯉や真鯉が跳ね出して来たが、そのほかにはこれというような掘出し物もなかった。お葉のさしていたらしい櫛が一枚あらわれた。小半日をついやして、これだけの獲物《えもの》しかないので、役人たちも失望した。それから家内を隈なく猟《あさ》ってみたが、どこも皆きちんと片付いていて別に取り散らしたような形跡もみえなかった。差しあたりはこの以上に詮議のしようもないので、あとの探索は半七にまかせて、役人たちは一旦引き揚げた。
 半七はあとに残って、其月の身許《みもと》しらべに取りかかった。かれの親類や、かれの弟子や、出入りの者や、それらの住所姓名を一々に調べることにした。子分の庄太を千住へやって、お葉の身許もしらべさせた。検視が済んでも、誰かその始末をする者がなくては、二つの死骸をどうすることも出来ないので、家主と近所の者四、五人があつまって来て、ともかくもその死骸の番をしていることになった。半七も坐っていた。みじかい冬の日がもう暮れかかる頃になって、其月の弟子たちがだんだんに寄って来たが、かれらは不慮の出来事におどろき呆れているばかりで、どの人の口からも何かの手がかりになるような新らしい材料をあたえてくれなかった。あかりの点《つ》く頃に半七はそこを出て、町内の自身番へゆくと、道具屋の惣八は飛んだ係り合いで、まだそこに留められているので、番屋の炉のそばに寒そうに竦《すく》んでいた。
「道具屋さん。お気の毒だね。節季師走《せっきしわす》のいそがしい最中に、いつまでも留められていちゃあ困るだろう。もういい加減に帰っちゃあどうだね」
「帰ってもよろしゅうございましょうか」と、惣八は生きかえったように云った。
「どうで直ぐには埓《らち》があきそうもねえから、用があった
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