ようだぜ」
「ところが、これは大丈夫、正銘《しょうめい》まがいなしの折紙付きという代物《しろもの》です。宗匠、まあ御覧ください」
 風呂敷をあけて勿体《もったい》らしく取り出したのは、芭蕉の「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」の短冊であった。それが真物《ほんもの》でないことは其月にもひと目で判った。もう一つは其角の筆で「十五から酒飲みそめて今日の月」の短冊で、これには其月もすこし首をかたむけたが、やはり疑わしい点が多かった。其月は無言で二枚の短冊を惣八のまえに押し戻すと、その顔つきで大抵察したらしく、惣八は失望したように云った。
「いけませんかえ」
「はは、大抵こんなことだろうと思った。承知していながら、押っかぶせようというのだから罪が深い」と、其月は取り合わないように笑っていた。
「どっかへ御世話は願えないでしょうか」
 其月はだまって頭《かぶり》をふった。
「困ったな」と、惣八はあたまを掻いていた。「其角の方もいけませんかしら」
「どうもむずかしい」
「やれ、やれ」と、惣八は詰まらなそうにしまい始めた。「ところで、もう一つ御相談があるんですがね」
 今度の相談は例の金魚で、寒中でも湯のなかで生きている朱錦《しゅきん》のつがいがある。それをどこへか売り込む口はあるまいか。売り手は二匹八両二歩と云っているのであるが、二歩はたしかに負ける。八両で売り込んでくれれば、宗匠にも二両のお礼をするというのであった。其月はまた笑った。
「おまえも慾がふかい男だ。商売のほかにいろいろの儲け口をあせるのだな」
「世が悪くなりましたからね。本業ばかりじゃ立ち行きませんよ」と、惣八も笑った。「ねえ、宗匠。この方はどうでしょう」
 それは其月にも心あたりが無いでもなかった。その金魚がほんものならば何処へか世話をしてやってもいいと答えると、惣八は急に顔の色を直した。
「ありがたい。是非一つお骨折りをねがいます。売り主も大事にしているんですから、その買い手がきまり次第、持って来てお目にかけます。このごろの相場として雌雄二匹で八両ならば廉《やす》いものです。十両から十四五両なんていうばかばかしい飛び値がありますからね。流行物《はやりもの》というものは不思議ですよ」
「まったく不思議だね」
 話が済んで、惣八が帰りかけると、出合いがしらに十七八の小綺麗な女が帰って来た。かれは女中のお葉《よう》であった。其月は今年四十六で、五年まえに妻をうしなったので、その後は女中と二人暮らしである。お葉は千住《せんじゅ》の生まれで、女中奉公をしている女としては顔や形も尋常に出来ているので、主人が独り身であるだけに、近所でもとかくの噂を立てる者もあった。惣八も時々にかれにからかうことがあるので、きょうも下駄を穿《は》きながら云った。
「やあ、お部屋さま、お帰りだね」
「若い者にからかってはいけない」と、其月はうしろからまじめに云った。
 惣八は首をちぢめて怱々《そうそう》に門を出た。外にはもう雨がふり出していたが、お葉は傘を持ってゆけとも云わなかった。惣八が横町の角を曲がったかと思うころに、時雨《しぐれ》は音をたてて降って来た。

     二

 それから半月あまりを過ぎた十二月のはじめに、お玉ヶ池に一つの事件が出来《しゅったい》して、近所の人たちをおどろかした。松下庵其月の家で、主人は何者にか斬り殺されて、女中のお葉は庭の池に沈んでいたのである。ふだんから普通の奉公人でないらしく思われているだけに、近所ではまたいろいろの噂を立てた。検視の役人は出張した。自分の縄張り内であるから、半七もすぐに駈け付けた。
 俳諧師の庵《いおり》というだけに、家の作りはなかなか風雅に出来ていたが、其月の宅は広くなかった。門のなかには二十坪ほどの庭があって、その半分は水苔《みずこけ》の青い池になっていた。玄関のない家で、女中部屋の三畳、そのほかには主人が机をひかえている四畳半と、茶の間の六畳と、畳の数はそれだけに過ぎなかった。近所ではこの椿事《ちんじ》をちっとも知らなかったのであるが、かの道具屋の惣八が早朝にたずねて来て、枝折戸《しおりど》のようになっている門を推《お》すと、門はいつものように明いたので、なんの気もつかずにはいって行くと、松の木の根もとに女の帯の端《はし》がみえた。不思議に思って覗《のぞ》いてみると、その帯は紅い尾をひいたように池の薄氷のなかに沈んでいるのであった。試みにその帯の端をつかんで引くと、それは人間のからだに巻きついているらしい手応《てごた》えがしたので、惣八はびっくりした。
 まえにも云う通り、玄関のない家で、すぐに四畳半の座敷へ通うようになっているので、惣八はあわててその雨戸を叩こうとすると、それまでもなく、雨戸は末の一枚が半分ほど明けてあったので、彼はそのあいだから
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