直は母につれられて一度行ったことがあるので、よもやとは思うものの、兄の藤太郎が店の者をつれて、あしたの早朝に越ヶ谷へ訪ねてゆくことになっている。甲州屋に取っては、それがおぼつかない一縷《いちる》の望みであった。娘が家出のことは無論、町《ちょう》役人にも届けて置いた。両国や永代《えいたい》の川筋へも人をやって、その注意を橋番にもたのんで置いた。甲州屋としては、もうほかに施《ほどこ》すべき手だてもないので、半七は今更なんの助言をあたえようもなかった。しかし明日《あした》になったならば、子分の者どもに云いつけて、せいぜい心あたりを探させてみることを約束して、半七はもう四ツ(午後十時)頃、甲州屋を出ると、まだ半町も行き過ぎないうちに、あとから息を切って追ってくるものがあった。
「もし、親分さん、三河町の親分さん」
女の声らしいので、誰かと思って立ち止まると、それは甲州屋のばあやのお広で、かれはあわただしくささやいた。
「親分さんに少し内々《ないない》で申し上げて置きたいことがございますが……。旦那やおかみさんは滅多《めった》にそんなことを云っちゃあならないと云っているのですが、どうも黙って居
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