めないでいると、つづいてお粂の声がきこえた。
「兄さん。ちょいと降りて来てくださいよ。すこし話があるんだから」
「なんだ」
団扇《うちわ》を持って降りてくると、お粂は待ち兼ねたように摺り寄って云った。
「あの、早速ですがね、おまえさんも知っているでしょう、甲州屋のなあ[#「なあ」に傍点]ちゃんを……」
「むむ、知っている」
半七の妹が神田の明神下に常磐津の師匠をして、母と共に暮らしていることは、前にもしばしば云った。そのすぐ近所に甲州屋という生薬屋《きぐすりや》があって、そこのお直《なお》という娘がお粂のところへ稽古に通っているのを、半七も知っていた。
「そのなあ[#「なあ」に傍点]ちゃんが何処へか行ってしまったのよ」と、お粂は少し小声で云った。
かれの訴えによると、お直のなあ[#「なあ」に傍点]ちゃんは行方不明になったというのである。お直はことし十三で、手習い師匠山村小左衛門へも通っていた。山村は甲州屋から三町あまり距《はな》れているところに古く住んで、常に八九十から百人あまりの弟子を教えていて、書流は江戸時代に最も多い溝口《みぞぐち》流であった。手習い一方でなく、十露盤《そろ
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