すい男と女とは長い日のくれるのを待っていると、宵からの雨がやがて恐ろしい大風雨《おおあらし》になった。
 死に急ぎをしている若い二人にとっては、この大風雨はむしろ仕合わせであるようにも思われた。女はまず約束の場所へ出てゆくと、男もあとから忍んで行った。折りからの風雨で、ほかの人達は気がつかなかったが、男のうしろにはおかんが影のように付きまとっていた。かれは絶えず男の行動を監視しているので、すぐそのあとをつけてゆくと、お朝と重吉とは蔵のまえで出逢った。
 暗い物影にかくれて、おかんはそっと窺っていると、危うく消えかかる手燭を下に置いて、お朝はまず鼠捕り粉の半分ほどを一と息に飲んだ。そうして、ふるえる手先でその飲み残りの袋を男に渡そうとしたので、おかんはあわてて飛び出そうとする時、あたりは火のように明るい世界になった。おかんは夢中で小膝をついて、両手で自分の耳を掩いながら、しっかりと目を閉じてしまった。
 毒薬をのんだお朝は雷にうたれた。これから毒薬を飲もうとした重吉は気をうしなって倒れた。もとより偶然の出来事ではあるが、雷はあたかも心中の場所に落ちて来て、しょせん死ぬべき女を殺し、まさに死のうとする男を救ったのであった。その驚きのなかにも、おかんは憎い二人の屍《しかばね》のうえに心中の浮名を立たせたくなかった。彼女はそれすらも妬《ねた》ましかったので、そこらに落ちている鼠捕り粉の袋を手早く隠してしまった。それから家内の人々を呼んで、この恐ろしい出来事を報告した。
 雷に撃たれた二人がこの時どうしてそこにいたかということが、まず問題とされなければならなかったが、奥の便所へ通うには蔵の前を通らなければならないように出来ているので、お朝がここに倒れていたのは便所へ行く途中であったらしく思われた。重吉は蔵のなかへ何か取り出しに行ったのであろうと想像された。
 憎い女が突然この世から消えてしまって、男ばかりが生き残ったのは、おかんに取ってはこの上もない好都合であった。かみなりは彼女に守護神ともいうべきであった。しかし彼女はやはり不運を逃がれることは出来なかった。お朝の死についで起ったのは相続人の問題で、重吉がその候補者のうちで最も有力の一人であるらしいので、おかんは又もや気を揉みはじめた。重吉が尾張屋の相続人となってしまえば、おそらく奉公人の自分をこの店の嫁にしないであろう。かりに重吉が承知したとしても、世間の手前、喜左衛門が承知しないであろう。こう思うと、かれは又新しい苦労をしなければならなかった。
 そのうちに其の話はだんだん進行するらしい形跡がみえて、二七日の前日におかんが松倉町の三河屋へ使にゆくと、そこでもそんな噂を聞かされたので、彼女はもう落ち着いていられなくなった。寺まいりの当日、主人や重吉が今戸へ行った留守に、おかんはいろいろに思案した。かれはとうとう思案をきめて、重吉の帰りを待った。
 重吉らが帰ってくる頃から又もや雷雨になった。この出来事におびえて、家内の者どもが縮みあがっている隙をみて、おかんは重吉を蔵のまえに連れ込んだ。かれは男にむかって、相続人のきまらないうちに自分と一緒に逃げてくれと迫ったが、重吉は肯《き》かなかった。そればかりでなく、自分はお朝の菩提のために一生|独身《ひとりみ》でいるつもりであるから、おまえも思い切ってくれと云い出したので、おかんは狂気のようになって、男の変心を責めた。そうして、もし自分のいうことを肯いてくれなければ、お朝が毒薬をのんだ秘密を主人に訴えると嚇《おど》したが、男はやはり動かなかった。訴えるならば訴えてよい。自分は心中の片相手として殺されてもいいと云った。
「それほど死にたくば殺してやる」
 おかんは赫《かっ》となって男の喉をしめた。在所《ざいしょ》生まれで、ふだんから小力《こぢから》のある彼女が、半狂乱の力任せに絞めつけたので、孱弱《かよわ》い男はそのままに息がとまってしまった。男がどうしても肯かなければ、かれを殺して自分も身をなげて死ぬと、おかんはかねて覚悟していたのであるが、その場になると彼女は俄かに気おくれがした。わが眼のまえに倒れている男の死骸をながめながら、彼女はぼんやり考えていると、雷の音は又ひとしきり凄まじくなって、今夜もここから遠くないところに落ちたらしく、大地もゆれるように震動した。その一刹那にかれは何事をか思いついて、死んでいる男の顔や手先を爪で引っかいた。

「おかんは死罪になりました」と、半七老人はわたしに話した。「今日《こんにち》でしたら情状酌量にもなったのでしょうが、その時代ではどうもそう行きませんでした。それも自訴でもしたら格別、男の顔を引っかいて雷獣の仕業らしく見せるなんていう狂言をこしらえて、自分は素知らぬ顔をしていたんですから、罪はいよいよ重く
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