まえが俄かに昼のようにあかるくなって、そこに落雷したことを知った時に、かれは誰よりも先にその場所へかけ付けると、まず彼女の眼にはいったのは、一匹の怪しい獣《けもの》がそこらを駈けまわっていたことであった。獣は稲妻のように忽ちその影を消してしまって、あとに残されたのは若い男と女とが正体もなく倒れている姿であった。おかんは声をあげて、家《うち》じゅうの人を呼びあつめた。
 おかんのほかに誰もその正体を見とどけた者はなかったが、尾張屋の人々もその雷獣の話を信じた。近所の人々も怪しまなかった。雷獣の噂はそれからそれへと伝えられたが、町《ちょう》役人たちもそれを疑わなかった。雷獣のゆくえは勿論わからなかった。
 お朝の二七日《にしちにち》は七月七日であったが、その日はあたかも七夕《たなばた》の夜にあたるというので、六日の逮夜《たいや》に尾張屋の主人喜左衛門は親類共と寺まいりに行った。重吉も一緒に行った。かれはお朝と運命を倶《とも》にすべくして無事に助かった幸運の男であった。参詣がすんで、七ツ(午後四時)過ぎに寺を出る頃から、空の色が俄かにあやしく黒ずんで来たので、この町内へはいる頃から大粒の雨がばらばらと落ちて来た。あわてて店へ逃げ込む途端に、大きい稲妻が一つ光った。つづいて雷が鳴り出した。
「早く雨戸をしめろ」
 喜左衛門は指図して、家じゅうの雨戸を厳重に閉めさせた。このあいだの出来事から雷というものに対する恐怖心の一段と強くなっている尾張屋の者どもは、総がかりで、雨戸をしめた。障子をしめた。蚊帳《かや》を吊った。線香をとぼした。雷に対する防備を手落ちなく整えた頃には、雷雨がだんだんに烈しくなって来て、厳重にしめ切った雨戸の隙き間からも強い稲妻がたびたび流れ込んで、人々のおびえている魂をいよいよおびえさせた。暮れ六ツ頃から雨は土砂ぶりになった。雷はこの近所へ二、三ヵ所も落ちたらしかった。人々は自分たちの部屋に閉じ籠って、蚊帳のなかに小さくなっていずれも生きた心地もなかった。
 雷雨は五ツ(午後八時)過ぎにようやく止んだ。それで人々もほっ[#「ほっ」に傍点]と息をついて、しめ切った雨戸などを明けはじめると、さらに又思いもよらない椿事《ちんじ》の出来《しゅったい》しているのに驚かされた。先度とおなじ蔵のまえに、かの重吉が死んでいるのであった。かれの顔や手先は所嫌わずに掻きむしら
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