りに重吉が承知したとしても、世間の手前、喜左衛門が承知しないであろう。こう思うと、かれは又新しい苦労をしなければならなかった。
そのうちに其の話はだんだん進行するらしい形跡がみえて、二七日の前日におかんが松倉町の三河屋へ使にゆくと、そこでもそんな噂を聞かされたので、彼女はもう落ち着いていられなくなった。寺まいりの当日、主人や重吉が今戸へ行った留守に、おかんはいろいろに思案した。かれはとうとう思案をきめて、重吉の帰りを待った。
重吉らが帰ってくる頃から又もや雷雨になった。この出来事におびえて、家内の者どもが縮みあがっている隙をみて、おかんは重吉を蔵のまえに連れ込んだ。かれは男にむかって、相続人のきまらないうちに自分と一緒に逃げてくれと迫ったが、重吉は肯《き》かなかった。そればかりでなく、自分はお朝の菩提のために一生|独身《ひとりみ》でいるつもりであるから、おまえも思い切ってくれと云い出したので、おかんは狂気のようになって、男の変心を責めた。そうして、もし自分のいうことを肯いてくれなければ、お朝が毒薬をのんだ秘密を主人に訴えると嚇《おど》したが、男はやはり動かなかった。訴えるならば訴えてよい。自分は心中の片相手として殺されてもいいと云った。
「それほど死にたくば殺してやる」
おかんは赫《かっ》となって男の喉をしめた。在所《ざいしょ》生まれで、ふだんから小力《こぢから》のある彼女が、半狂乱の力任せに絞めつけたので、孱弱《かよわ》い男はそのままに息がとまってしまった。男がどうしても肯かなければ、かれを殺して自分も身をなげて死ぬと、おかんはかねて覚悟していたのであるが、その場になると彼女は俄かに気おくれがした。わが眼のまえに倒れている男の死骸をながめながら、彼女はぼんやり考えていると、雷の音は又ひとしきり凄まじくなって、今夜もここから遠くないところに落ちたらしく、大地もゆれるように震動した。その一刹那にかれは何事をか思いついて、死んでいる男の顔や手先を爪で引っかいた。
「おかんは死罪になりました」と、半七老人はわたしに話した。「今日《こんにち》でしたら情状酌量にもなったのでしょうが、その時代ではどうもそう行きませんでした。それも自訴でもしたら格別、男の顔を引っかいて雷獣の仕業らしく見せるなんていう狂言をこしらえて、自分は素知らぬ顔をしていたんですから、罪はいよいよ重く
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