郎は絵筆の嗜《たしな》みのあるのを幸いに、旅絵師に化けて奥州へ下ってくる途中で、偶然に房川《ぼうかわ》の渡しでおげんを救ったのが縁となって、千倉屋伝兵衛と親しくなった。しかも其の家は鉄次郎の澹山がこれから踏み込もうとする城下の町にあるというので、彼はこの上もない好都合をよろこんで、抑留《ひきと》められるままに千倉屋の客となった。そうして三月あまりを送るうちに、彼は伝兵衛の推挙で城の用人荒木頼母の伜千之丞から掛物の揮毫《きごう》を頼まれた。
 城内の者に知己を得るという事は、澹山に取っては最も望むところであったので、彼はいよいよ喜んでそれを引き受けたが、それがどうも思うように描きあがらないので、彼の心はひどく苦しめられた。あの絵師はまずいと一旦見限られてしまうと、城内の他の人々にも接近する機会を失うことになるので、彼はこの絵を腕一ぱいにかきたいと思った。もう一つには万一自分が隠密であるということが発覚した暁に、江戸の侍はこんなまずい絵を描き残したと後日《ごにち》の笑いぐさにされるのが残念である。十分に念を入れて描きたいと、あせれば躁《あせ》るほど其の筆は妙に固くなって、彼として相当の自信
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