云った。「わたくしの方に入用があればこそ、こうして折り入ってお願い申すのでござります」
 自分の頼みを素直に引き受けてくれる上は、自分たちもかならずあなたの身の上を保護して、秘密の役目を首尾よく成就《じょうじゅ》させてやると、伝兵衛は彼の信仰する神のまえで固く誓った。

     四

 それから一と月ほどの間、澹山は病気と云って誰にも逢わなかった。夜も昼も一と足も外へ踏み出さなかった。かれは千倉屋の離れ座敷に閉じ籠って、朝から晩まで絵絹にむかって、ある物の製作に魂をうち込んでいた。そのあいだに荒木千之丞は絵の催促にたびたび来たが、伝兵衛がいつもいい加減にことわっていた。十月の末になって、ここらでは早い雪が降った。
「先生、ありがとうござりました。御恩は一生忘れません」
 秘密の絵像が見事に出来あがって、澹山の手から伝兵衛に渡されたときに、彼は涙をながして澹山を伏し拝んだ。そうしてその報酬として、伝兵衛の手からもいろいろの秘密書類が澹山に渡された。この一ヵ月のあいだに伝兵衛はおなじ信徒を働かせて、また一方にはたくさんの金を使って、いろいろの方面から秘密の材料を蒐集して来たのであった。
 この城内における小さいお家騒動の事情はこれでいっさい明白になった。嫡子忠作の死は毒害などではなく、まさしく庖瘡《ほうそう》であったことが確かめられた。しかし藩中に党派の軋轢《あつれき》のあったことは事実で、嫡子の死んだのを幸いに妾腹の長男を押し立てようと企てたものと、正腹の次男を据えようと主張するものと、二つの運動が秘密のあいだに行なわれたが、結局は正腹方が勝利を占めて、家老のひとりは隠居を申し付けられた。用人の一人は詰腹を切らされた。そのほかに閉門や御役御免などの処分をうけた者もあって、この内訌《ないこう》も無事に解決した。
 これでもう澹山の役目は済んだものの、他人《ひと》のあつめてくれた材料ばかりを掴んで帰るのはあまりに無責任である。これだけの材料を土台として、自分が直接に調べあげて見なければ気が済まないので、澹山はここで年を越すことにした。千倉屋ではいよいよ鄭重に取り扱ってくれた。
 十一月になって雪のふる日が多くつづいたので、澹山はこのあいだに彼《か》の千之丞から頼まれた掛物を仕上げてしまおうと思い立って、再び絵筆を執《と》りはじめると、不思議にその西王母の顔が、かのマリア
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