。船にぬいで置いた上衣《うわぎ》などは大抵どこへか飛んで行った。男の紙入れ、女のかんざし、そんな紛失物はかぞえ切れなかった。
はまぐりや浅蜊の獲物も大抵捨てて帰った。命に別状のなかったのをせめてもの仕合わせにして、きょうの潮干狩の群れはさんざんの体でみな引き揚げた。
二
めいめいの宿許《やどもと》へ引き揚げて、やれよかったと初めて落ちつくと共に、どの人の口に上《のぼ》ったのもかの奇怪な人間の噂であった。その風体《ふうてい》や挙動が奇怪であるのは云うまでもない、更に奇怪を感ぜしめたのは、彼が誰よりも先に颶風や潮を予報したことであった。老練の船頭すらもまだそれを発見し得ない間に、かれがどうして逸早《いちはや》くそれを予覚したのであろうか。はじめは気ちがいの囈言《うわごと》ぐらいに聞きながしていた彼の警告が一々図星にあたっていたのである。人か神か、仙人か、諸人はその判断に迷った。
混乱の折柄で、彼がそれからどうしたか、どこへ行ってしまったか、誰もたしかに見とどけた者はなかったが、最後にここを引き揚げたのは、築地|河岸《がし》の船宿|山石《やまいし》の船で、その船頭は清次と
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