て諸人の胸の奥に一種の不安が微かに湧き出して来た。女子供を多く連れている組では、そろそろ帰り支度に取りかかる者もあった。そのうちに或る船の船頭……それは老人で、さっきから彼《か》の男と同じように、小手《こて》をかざして陸上の空を仰いでいたのであるが、俄かに突っ立ちあがって大音に呶鳴《どな》った。
「颶風だ、颶風だぞう。早く引きあげろよう」
 海の上に生活している彼の声は大きかった。それが遠いところまでも響き渡って諸人の耳をおどろかした。愛宕山の上かと思われるあたりに、たったひと掴《つか》みほどの雲があらわれたのである。ほかの船頭共も俄かにさわぎ出した。かれらも声をそろえて、颶風だ颶風だと叫んで触れまわった。潮の退《ひ》いている海ではあるが、それでも颶風の声は人々の胸を冷やした。遠いも近いも互いに呼びつれて、あわただしく自分たちの船へ引きあげようとする時、一陣のすさまじい風が突然に天から吹きおとして来た。黒い雲はちっとも動かないで、ゆう日の沈み切らない西の空はやはり明るく晴れているのであるが、海の上には眼に見えない風がごうごうと暴れ狂って、足弱《あしよわ》な女子供はとても立ってはいられな
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