で逢いました」と、清次はすり寄って来てささやいた。「実はね、このごろは毎日天気が悪いので、商売の方もあんまり忙がしくないもんですから、きのうの午《ひる》すぎに小梅の友達のところへ遊びに出かけました。すると、その途中でひとりの女に逢ったんですよ。その女は近所の湯からでも帰って来たとみえて、七つ道具を持って蛇《じゃ》の目《め》の傘をさしてくる。どうも見おぼえのあるような女だと思って、すれちがいながら傘のなかを覗いてみると、それがね、親分さん。それ、いつかの潮干《しおひ》の時の女なんですよ」
 半七は無言でうなずくと、清次は左右を見かえりながら話しつづけた。
「こいつ、見逃がしちゃあいけねえと思ったから、わっしはそっとその女のあとをつけて行くと、それから小半町ばかり行ったところに瓦屋がある。そのとなりの生垣《いけがき》のある家へはいったのを確かに見とどけたから、それとなく近所で訊いてみると、その女はおとわといって深川辺の旦那を持っているんだそうです。なるほど、庭の手入れなんぞもよく行きとどいていて、ちょいと小綺麗に暮らしているようでした」
「そうか」と、半七は笑いながら又うなずいた。「それは御苦労、よく働いてくれた。その女は三十ぐらいだと云ったっけな」
「ちょいと見ると、二十七八ぐらいには化かすんだけれど、もう三十か、ひょっとすると一つや二つは面《つら》を出しているかも知れません。小股《こまた》の切れあがった、垢ぬけのした女で、生まれは堅気《かたぎ》じゃありませんね」
「判った。わかった。路の悪いのによく知らせに来てくれた。いずれお礼をするよ」
 清次に別れて、半七は往来に突っ立って少しかんがえた。清次が乗せた潮干狩の客は、かの怪しい男となにかの関係があるらしい。現にそのひとりの女は颶風の最中に彼と話していたらしいという。かたがたこの潮干狩の一と組を詮索すれば、自然に彼の正体もわかるに相違ない。これは神田川へ行って千八を詮議するよりも、まず小梅へ出張ってその方をよく突き留めるのが近道らしい。こう思案して、半七はまっすぐに小梅へゆくことにした。陰るかと思った空は又うす明るくなって、厩《うまや》橋の渡しを越えるころには濁った大川の水もひかって来た。
「傘はお荷物かな」
 半七はまた舌打ちをしながら、向う河岸へ渡ってゆくと、その頃の小梅の中《なか》の郷《ごう》のあたりは、為永春水《ためながしゅんすい》の「梅暦」に描かれた世界と多く変らなかった。柾木《まさき》の生垣を取りまわした人家がまばらにつづいて、そこらの田や池では雨をよぶような蛙の声がそうぞうしく聞えた。日和《ひより》下駄の歯を吸い込まれるような泥濘《ぬかるみ》を一と足ぬきにたどりながら、半七は清次に教えられた瓦屋のまえまで行きついた。
 となりと云っても、そのあいだにかなりの空地《あきち》があって、そこには古い井戸がみえた。井戸のそばには大きい紫陽花《あじさい》が咲いていた。半七はその井戸をちょっと覗いて、それから生垣越しに隣りをうかがうと、おとわという女の家はさのみ広くもないらしいが、なるほど清次の云った通り、ここらとしては小綺麗に出来ているらしい造作で、そこの庭にも紫陽花がしげっていた。
「しようがないねえ。また庭の先へ骨をほうり出して置いて……。お千代や。掃溜《はきだ》めへ持って行って捨てて来ておくれよ」
 縁先で女の声がきこえたかと思うと、女中らしい若い女が箒《ほうき》と芥《ごみ》取りを持って庭へ出て来て、魚の骨らしいものをかき集めているらしかった。犬か猫が食いちらしたのかと思ったが、半七は別に思いあたることがあるので、ぬき足をして裏口へまわってゆくと、女中はその骨のようなものを掃溜めへなげ込んで、すぐに台所へはいった。
 半七はそっと掃溜めをのぞいてみると、魚の骨はみな生魚《なまうお》であるらしかった。犬や猫がこんなに綺麗に生魚を食ってしまうのは珍らしい。更に注意して窺うと、掃溜めの底にはやはり生魚の骨らしいのが重なっていた。
 半七は引っ返して元の井戸ばたへ来ると、瓦屋の女房らしい女が洗濯物をかかえて出て来たので、道を訊《き》くような風をして如才《じょさい》なく話しかけて、となりの家ではどこの魚屋《さかなや》から魚を買っているかということを半七は聞き出した。それは半町ほど離れた魚虎という店で、ちょっとした料理も出来ると女房は口軽に話しかけた。
 魚虎へ行って、半七は更にこんなことを聞き出した。おとわの家はお千代という女中と二人暮らしで、深川の木場の番頭を旦那にしているということで、なかなか贅沢に暮らしているらしい。旦那が来た時には、いつでも三種四種《みしなよしな》の仕出しを取る。そのあいだにも毎日なにかの魚を買うが、三月の末頃からは生魚の買物が多い。別に人もふえた様子は
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