方はそうでない。男が死のうと覚悟するからには、死ぬだけの理窟があるに相違ない。どうしても生きていられないような事情があるに相違ない。いっそ見殺しにしてやる方が当人の為だ、と、まあこういうわけで、男の身投げは先ず助けないことになっている。それが自然の習慣になって、ほかの水死人を見つけた時にも、女は引き上げて介抱してやるが、男は大抵突き流してしまうのが多い。男こそいい面《つら》の皮だが、どうも仕方がありませんよ」
ここの船でも船頭が男の水死人を突き流そうとするのを、隠居は制した。
「まあ、引き上げてやれ。なにかの縁でおれの網にはいったのだ」
こう云われて、千八も争うわけには行かなかった。かれは指図の通りに網を手繰《たぐ》って、ともかくもその男を船のなかへ引き上げると、かれは死んでいるのではなかった。網を出ると、彼はすぐにあぐらをかいた。
「なにか食い物はないか。腹が減《へ》った」
隠居も千八もおどろいていると、男はそこにある魚籠《びく》に手を入れて、生きた小魚をつかみ出してむしゃむしゃと食った。二人はいよいよ驚かされた。
「まだ何かあるだろう。酒はねえか」と、彼はまた云った。「ぐずぐずしていやあがると、これだぞ」
かれは腹巻からでも探り出したらしい、いきなりに匕首《あいくち》を引きぬいて二人の眼さきに突きつけたので、船頭は又びっくりした。しかし一方は武家の隠居である。すぐにその刃物をたたきおとして再び彼を水のなかへ投げ込んでしまった。
「はは、悪い河獺《かわうそ》だ」と、隠居は笑っていた。
しかし、それが河獺でないことは判り切っていた。千八はただ黙っていると、隠居はこれに興をさましたらしく、今夜はもうこれで帰ろうと云った。船頭はすなおに漕いで帰った。
この報告を終って、幸次郎は半七の顔色をうかがった。
「どうです。変な話じゃありませんか」
三
半七は黙ってその報告を聞いていたが、やがて思い出したようにうなずいた。
「むむ、そんな話が去年もあったな。おめえは知らねえか」
「知りませんね」と、幸次郎は首をかしげた。「やっぱりそんな話ですかえ」
「まあ、そうだ。なんでもそれは麻布《あざぶ》辺の奴らだ。町人が三、四人で品川へ夜網に行くと、海のなかから散らし髪の男がひょっくり浮き出したので、船の者はびっくりしていると、その男はいきなり船へ飛び込んで来て、なにか食わせろと云うんだ」
「へえ、よく似ていますね」と、幸次郎は不思議そうに眼を見はった。「それからどうしましたえ」
「こっちは呆気《あっけ》にとられているから、なんでも相手の云うなり次第さ。船に持ち込んでいる酒と弁当を出してやると、息もつかずに飲んで食って、また海のなかへはいってしまったそうだ」
「まるで河童《かっぱ》か海坊主のような奴ですね。そうすると、ゆうべの奴もやっぱりそれでしょうよ」
「きっとそれだ」と、半七は云った。「いくら広い世のなかだって、そんな変な奴が幾人もいるわけのものじゃあねえ。きっとおなじ奴に相違ねえ。このあいだの潮干狩に出て来た奴もやっぱりそれだろう。だが、妙な奴だな。人間の癖に水のなかに棲んでいて、時々に陸《おか》や船にあがってくる。まったく河童の親類のような奴だ。葛西《かさい》の源兵衛堀でも探してみるかな」
「ちげえねえ」と、幸次郎も笑った。
この頃、顔やからだを真っ黒に塗って、なまの胡瓜《きゅうり》をかじりながら、「わたしゃ葛西の源兵衛堀、かっぱの伜でござります」と、唄ってくる一種の乞食があった。したがって河童といえば生の胡瓜を食うもの、河童の棲家《すみか》といえば源兵衛堀にあるというように、一般の人から冗談半分に伝えられて、中にはほんとうにそれを信じている者もあったらしい。半七は笑いながら又|訊《き》いた。
「ゆうべの奴は匕首のようなものを出したと云ったな」
「そうです。なんでも光るものを船頭の眼のさきへ突き付けたそうですよ」
「いよいよ変な奴だな。そんな奴を打っちゃって置くと、世間の為にならねえ。しまいには何を仕出来《しでか》すか知れねえ。おれもよく考えて置こう。おめえも気をつけてくれ」
幸次郎を帰したあとで、半七はいろいろに考えた。幸次郎の報告で、ゆうべの出来事も大抵は判っているものの、念のためにもう一度、その船頭の千八に逢ってくわしい話を聴いたらば、又なにかの手がかりを探り出すことがないとも限らない。半七は起《た》って窓をあけると、一旦晴れそうになった今朝の空もまた薄暗く陰《くも》って来た。
「しようがねえな」
舌打ちしながら半七は神田の家を出ると、横町の角でわかい男に逢った。男は築地の山石の船頭清次であった。
「親分さん。お早うございます」
「やあ、清公。どこへ行く」
「おまえさんの家《うち》へ……。丁度いいところ
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