店の奥の密談を一々ぬすみ聴いていた。
「それで、これからどうしようというのだ。どうしても斯《こ》うしちゃあいられないのか」
「随分いろいろに趣向もして見たけれど、向うに荒神《こうじん》様が付いているんでね。今夜という今夜はもうどうにもしようがないと見切りをつけて、おまえさんのところへ駈け付けた訳なんですから、その積りで度胸を据えてくださいよ」
「だが、うっかり姿を隠したら猶々《なおなお》こっちに疑いがかかる訳じゃあないか」と、男はまだ躊躇しているらしく答えた。
「それがいけない。それが未練よ」と、女は焦《じ》れるように云った。「疑いがかかるどころじゃない。もうすっかりと種をあげられてしまったんだから、うろうろしちゃあ居られないんですよ。お前さん、鈴ヶ森で獄門にかけられて、沖の白帆でも眺めていたいのかえ」
「よしてくれ。聞いただけでも慄然《ぞっ》とする。そりゃあ私だってこうなったら仕方がない。そうして、これからどこへ行く積りだ」
「駿府《すんぷ》の在《ざい》にちっとばかり識っている人があるから、ともかくもそこへ頼って行って、ほとぼりの冷めるまで麦飯で我慢しているのさ。お前さん、どうしても
前へ 次へ
全36ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング