るのであった。万延元年の十月、きょうは池上《いけがみ》の会式《えしき》というので、八丁堀同心室積藤四郎がふたりの手先を連れて、早朝から本門寺|界隈《かいわい》を検分に出た。やがてもう五ツ(午前八時)に近いころに、高輪《たかなわ》の海辺へさしかかると、葭簀《よしず》張りの茶店に腰をかけて、麻裏草履を草鞋《わらじ》に穿《は》きかえている年頃二十七八の小粋な男があった。藤四郎はそれにふと眼をつけると、すぐ手先どもに頤《あご》で知らせた。
 藤四郎の眼にとまった彼《か》の男は、石原の松蔵という家尻《やじり》切りのお尋ね者であった。かれは詮議《せんぎ》がだんだんに厳しくなって来たのを覚って、どこへか高飛びをする積りであるらしい。飛んだところで思いも寄らない拾い物をしたのを喜んだ手先どもは、すぐにばらばらと駈けて行って、彼のうつむいている頭の上に御用の声を浴びせかけると、松蔵は今や穿こうとしていた片足の草鞋を早速の眼つぶしに投げつけて、腰をかけていた床几《しょうぎ》を蹴返して起《た》った。それと同時に、かれの利腕《ききうで》を取ろうとした一人の手先はあっ[#「あっ」に傍点]と云って倒れた。松蔵はふ
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