入れ違ったときに、藤四郎の雪駄《せった》は店先の打ち水にすべって、踏みこらえる間《ひま》もなしに小膝を突いた。そこへ付け込んで一と足踏み込もうとした松蔵は、俄かによろめいて立ちすくんだ。頭の上の二階から重い草履がだしぬけに飛んで来て、かれの眼をしたたかに撲《ぶ》ったのであった。立ちすくむ途端に、かれの足は藤四郎の十手に強く打たれた。これ以上は説明するまでもない。松蔵の運命はもう決まった。
草履の主《ぬし》は伊勢屋のお駒であった。かれは朝帰りの客を送り出して、自分の部屋を片付けていると、表に捕物があるという騒ぎに、ほかの朋輩たちと一緒に表二階の欄干に出てみると、あたかもここの店さきで十手と短刀がひらめいている最中であった。かれらは息をのんで瞰下《みおろ》していると、捕手の同心が打ち水にすべって危うく倒れかかったので、お駒は思わず自分の草履を取って、一方の相手の顔に叩きつけた。その眼つぶしが効を奏して、おたずね者の石原の松蔵は両腕に縄をかけられたのである。この時代でも捕方《とりかた》に助勢して首尾よく罪人を取り押えたものにはお褒めがある。その働き方によっては御褒美も下されることになっていた。ましてお駒は男でない、賤《いや》しい勤め奉公の女として、当座の機転で罪人を撃ち悩まし、上《かみ》に御奉公を相勤めたること近ごろ奇特《きどく》の至りというので、かれは抱え主附き添いで町奉行所へ呼び出されて、銭二貫文の御褒美を下された。
遊女が上から御褒美を貰うなどという例は極めて少ない。殊にそれがいかにも芝居のような出来事であっただけに、世間の評判は猶さら大きくなった。一度は話の種にお駒という女の顔を見て置こうという若い人達も大勢あらわれて、お駒を買いに来る者と、ほかの女を買ってお駒の顔だけを見ようという者と、それやこれやで伊勢屋は俄かに繁昌するようになった。それはお駒が二十歳《はたち》の冬で、それから足かけ三年の間、かれは伊勢屋の福の神としていつも板頭《いたがしら》か二枚目を張り通していた。そのお駒が突然に冥途へ鞍替えをしたのであるから、伊勢屋の店は引っくり返るような騒ぎになった。土地の素見《ひやかし》の大哥《あにい》たちも眼を皿にした。
お駒は寝床のなかで絞め殺されていたのであった。それは中引《なかび》け過ぎの九ツ半(午前一時)頃で、その晩のお駒の客は三人あったが、本部屋へはいったのは芝源助|町《ちょう》の下総屋《しもうさや》という呉服屋の番頭吉助で、かれは店者《たなもの》の習いとして夜なかに早帰りをしなければならなかった。いつもの事であるから相方《あいかた》のお駒も心得ていて、中引け前にはきっと起して帰すことになっていたのであるが、その晩はお駒も少し酔っていた。吉助も酔って寝込んでしまった。吉助は夜なかにふと眼をさまして、喉が渇《かわ》くままに枕もとの水を飲んで、それから煙草を一服すったが、二階じゅうはしん[#「しん」に傍点]と寝静まって夜はもう余ほど更けているらしい。これは寝すごしたと慌てて起き直ると、いつも自分を起してくれるはずのお駒は正体もなく眠っていた。
「おい、お駒。早く駕籠を呼ばせてくれ」
云いながら煙管《きせる》を煙草盆の灰吹きでぽん[#「ぽん」に傍点]と叩くと、その途端に彼は枕もとに小さい物の影が忍んでいるのを発見した。うす暗い行燈《あんどう》の光りでよく視ると、それは黄いろい張子の虎で、お駒の他愛ない寝顔を見つめているように短い四足《よつあし》をそろえて行儀よく立っていた。宵にこんな物はなかった筈だがと思いながら、彼はそれを手に取ってながめると、虎は急に眼がさめたように不格好な首を左右にふらふらと揺《ゆる》がした。しかしお駒は醒めなかった。彼女はいつのまにか冷たくなって永い眠りに陥っているのであった。それを発見した吉助は張子の虎をほうり出して飛び起きた。彼はふるえ声で人を呼んだ。
大勢が駈け集まってだんだん詮議すると、お駒は何ものにか絞め殺されていることが判った。正体もなしに酔い臥《ふ》していた吉助は、そばに寝ているお駒がいつの間に死んだのかを知らないと云った。しかし一つ部屋に居合わせた以上、かれは無論にそのかかり合いを逃がれることは出来ないで、諸人がうたがいの眼は先ず彼の上に注がれた。場所といい、事件といい、主人持ちの彼に取っては迷惑重々であったが、よんどころない羽目《はめ》と覚悟をきめたらしく、かれは検視の終るまでおとなしくそこに抑留されていた。
伊勢屋の訴えによって、代官伊奈半左衛門からの役人も出張した。夜のあける頃には町与力《まちよりき》も出張した。品川は代官の支配であったが、事件が事件だけに、町方も立ち会って式《かた》のごとくに検視を行なうと、お駒はやはり絞め殺されたものに相違なかった。
かれの首に
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