前でひとりの婆さんがあま酒の固練りを売っていたが、それはたしかにお熊の母のお綱であった。彼女は眼ざとく徳三郎を見つけて、つかつかと寄ってその袂を引っ掴《つか》んで、娘はどこにいるか直ぐに返せと叫んだ。徳三郎は死神《しにがみ》に出合ったよりも怖ろしくなって、殆ど夢中でかれを突き倒して逃げた。その晩から彼は大熱を発して、十日ばかりも蛇のように蜿うち廻って苦しんだ。
 箱根を越せば蛇神の祟りはないというのも的《あて》にはならなかった。お綱はわが子のゆくえを尋ねて、九州から江戸まで遙々《はるばる》と追って来たのであろう。その強い執着心を思いやると、徳三郎はいよいよ怖ろしくなって来たので、彼はお熊に因果をふくめて娘を母の手に戻そうと覚悟したが、お熊はどうしても肯《き》かなかった。男にわかれて国へ帰るほどならば、いっそ死んでしまうと泣き狂うので、徳三郎も持て余した。そのうちに怪しい甘酒売りの噂はだんだん高くなって、それはお綱であることを徳三郎とお熊だけは知っていた。お熊は母に見付けられないように其の出入りを注意していたが、徳三郎はどうかんがえても不安に堪えなかった。世間の評判が高くなるほど彼の恐怖
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