魘《おそ》われたように二人はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そうして、その声のする方角を一度透かしてみると、今の強い雨でどこの店も大戸を半分ぐらいは閉めてしまったが、そのあいだから流れ出して来る灯のひかりは往来のぬかるみを薄白く照らして、雷門の方から跣足《はだし》でびしゃびしゃあるいて来る女の黒い影がまぼろしのように浮いてみえた。世間にあま酒を売ってあるく者は幾人もある。殊にその声があまり若々しく冴えてひびくので、半七は少し躊躇《ちゅうちょ》したが、ともかくも善八を促《うなが》して路ばたの軒下に身をひそめていると、声の主はだんだんに近寄って来た。かれはあま酒の箱を肩にかけて、びしょ濡れになっているらしかった。ふたりは呼吸《いき》をのんで窺っていると、かれは河内屋のまえに来て吸い付けられたように俄かに立ち停まった。声は若々しいのに似合わず、彼女がたしかに老女であることを知ったときに半七の胸は波を打った。
 かれは先ず河内屋の表をうかがって、更に露路口の方へまわった。半七もそっと軒下をぬけ出して露路の口からのぞいて見ると、彼女は河内屋の水口にたたずんで、しばらく内を窺っているらしかったが、やがて又引っ返して表へ出て来た。ここですぐに取り押さえようか、もうちっと放し飼いにして置いて其の成り行きを見とどけようかと、半七はちょっと思案したが、結局黙ってそのあとを尾《つ》けてゆくことにした。善八もつづいて歩き出した。二人はさっきから跣足になっているので、雨あがりのぬかるみを踏んでゆく足音が相手に注意をひくのを恐れて、わざと五、六間も引きさがって忍んで行った。
 河内屋の露路を出てから、彼女はあま酒の固練りを呼ばなくなった。かれは往来のまん中を黙って俯向《うつむ》いてゆくらしかった。
「親分。たしかに彼女《あいつ》でしょうね」と、善八はささやいた。
「河内屋を覗いて行ったんだから、あの婆《ばばあ》に相違ねえ」
 云ううちに彼女の姿は消えるように隠れてしまったので、ふたりは又おどろいた。善八は少しおじ気が付いたように立ちすくんだ。吉原へゆくらしい駕籠が二挺つづいて飛ぶようにここを駈けぬけて通ると、その提灯の火に照らされて、かれの痩せた姿は又ぼんやりと暗やみの底から浮き出した。その途端に、かれは思い出したように一と声呼んだ。
「あま酒の固練り……」
 この声がしずかな夜の往来に冴えてひびくと、通りぬけた駕籠の一挺が俄かに停まった。ひとりの武士らしい男が垂簾《たれ》をはねて、彼女のそばにつかつかと進み寄った。そうして、なにか小声でふた言三言押し問答しているかと思うと、白い刃のひかりが提灯の火にきらりと映って、婆は抜き打ちに斬り倒された。かれは声も立てないで、枯れ木を倒したように泥濘《ぬかるみ》のなかに横たわった。武士は刀を納めて再び駕籠に乗ろうとするところへ、半七は駈け寄ってその棒鼻をさえぎった。
「しばらくお待ちくださいまし。わたくしは町方《まちかた》の者でございます。唯今のは試し斬りでございますか、それとも何か仔細がございますか」
 たといそれが武士であろうとも、みだりに試し斬りなどをすれば立派な罪人である。次第によっては、かれも切腹の罪科《つみとが》は免かれない。相手を斬ってうまく逃げおおせればいいが、それが町方の眼にとまったりすると、甚だ面倒になる。飛んだところを見つけられて、武士はひどく迷惑したらしく、しばらく口籠って躊躇していると、まえの駕籠からも一人の武士が出て来た。どちらも若い武士であったが、新らしく出て来た一人は幾らか場慣れているらしく、半七にむかって我々は決して試し斬りではないと弁解した。しかし、その仔細を云うわけには行かない。屋敷の名を明かすわけにも行かない。どうかこのまま見逃がしてくれと彼はしきりに頼んだが、半七は素直に承知しなかった。一旦自分の眼にとまった以上、見す見す人殺しを見逃がすことは出来ないと云い張った。それは勿論正当の理窟であったが、もう一つには折角ここまで追いつめて来た大事の捕り物を、横合から不意に出て来て玉無しにされてしまったという業腹《ごうはら》がまじって、半七は飽くまでも意地悪くこの武士を窘《いじ》めにかかった。
 窘められて、相手はいよいよ困ったらしく、結局は金ずくで内済にしたいようなことまで云い出したが、半七はどうしても肯《き》かないで、とうとう彼等二人を再び駕籠にのせて、無理無体に近所の自身番へ引き摺って行った。婆を斬った若い武士はもう覚悟を決めているらしかった。
「たといなんと申されても屋敷の名を明かすわけにはまいらぬ。たって役人に引き渡すとあれば、手前これにて切腹いたす」
 こうなると、半七もなんだか可哀そうにもなって来て、いつまでも彼等を窘めていられなくなった。彼はほかの武士を表へ呼び出
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