半七捕物帳
あま酒売
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)可怪《おかし》なこと

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百本|杭《ぐい》

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(例)※[#「日+向」、第3水準1−85−25]
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     一

「また怪談ですかえ」と、半七老人は笑った。「時候は秋で、今夜は雨がふる。まったくあつらえ向きに出来ているんですが、こっちにどうもあつらえむきの種がないんですよ。なるほど、今とちがって江戸時代には怪談がたくさんありました。わたくしもいろいろの話をきいていますが、商売の方で手がけた事件に怪談というのは少ないものです。いつかお話した津の国屋だって、大詰へ行くとあれです」
「しかし、あの話は面白うござんしたよ」と、わたしは云った。「あんな話はありませんか」
「さあ」と、老人は首をかしげて考えていた。「あれとは又、すこし行き方が違いますがね。こんな変な話がありましたよ。これはわたくしにも本当のことはよく判らないんですがね」
「それはどんなことでした」と、わたしは催促するように云った。
「まあ、待ってください。あなたはどうも気がみじかい」
 老人は人をじらすように悠々と茶をのみはじめた。秋の雨はびしゃびしゃというような音をたてて降っていた。
「よく降りますね」
 外の雨に耳をかたむけて、あたまの上の電燈をちょっと仰いで、老人はやがて口を切った。
「安政四年の正月から三月にかけて可怪《おかし》なことを云い触らすものが出来たんです。それはどういう事件かというと、毎日暮れ六ツ――俗にいう『逢魔《おうま》が時《とき》』の刻限から、ひとりの婆さんが甘酒を売りに出る。女のことですから天秤をかつぐのじゃありません。きたない風呂敷に包んだ箱を肩に引っかけて、あま酒の固練《かたね》りと云って売りあるく。それだけならば別に不思議はないんですが、この婆さんは決して昼は出て来ない。いつでも日が暮れて、寺々のゆう六ツの鐘が鳴り出すと、丁度それを合図のようにどこからかふらふらと出て来る。いや、それだけならまだ不思議という段には至らないんですが、うっかりその婆さんのそばへ寄ると、きっと病人になって、軽いので七日《なのか》や十日《とおか》は寝る。ひどいのは死んでしまう。実におそろしい話です。その噂がそれからそれへと伝わって、気の弱いものは逢魔が時を過ぎると銭湯《せんとう》へも行かないという始末。今日の人達はそんな馬鹿な事があるものかと一と口に云ってしまうでしょうが、その頃の人間はみんな正直ですから、そんな噂を聞くと竦毛《おぞけ》をふるって怖がります。しかも論より証拠、その婆さんに出逢って煩《わずら》いついた者が幾人もあるんだから仕方がありません。あなた方はそれをどう思います」
 私にはすぐに返事が出来ないので、ただ黙って相手の顔を見つめていると、老人はさもこそといったような顔をして、しずかにその怪談を説きはじめた。
 その怪しい婆さんを見た者の説明によると、かれはもう七十を越えているらしい。麻のように白く黄いろい髪を手拭につつんで、頭のうしろでしっかりと結んでいた。筒袖かとも思われるような袂のせまい袷《あわせ》の上に、手織り縞《じま》のような綿入れの袖無し半纒《はんてん》をきて、片褄《かたづま》を端折《はしょ》って藁草履をはいているが、その草履の音がいやにびしゃびしゃと響くということであった。しかしその人相をよく見識っている者がない。かれに一度出逢った者も、うす暗いなかに浮き出している梟《ふくろう》のような大きい眼、鳶《とんび》の口嘴《くちばし》のような尖った鼻、骸骨のように白く黄いろい歯、それを別々に記憶しているばかりで、それを一つにまとめて人間らしい者の顔をかんがえ出すことは出来なかった。
 かれは唯ふらふらと迷い歩いているのではない、あま酒を売っているのである。なんにも知らずにその甘酒を買った者もたくさんあったが、その甘酒に中毒したものはなかった。又その甘酒を買った者がことごとく病みついたというわけでもなかった。往来でうっかり出逢った者のうちでも、なんの祟《たた》りも無しに済んだものもあった。つまりめいめいの運次第で、ある者は祟られ、ある者は無難であった。いずれにしても婆さんの方は何事を仕向けるのでもない。ただ黙ってゆき違うばかりで、不運の者はその一刹那におそろしい災難に付きまとわれるのであった。
 眼にも見えないその怪異に取り憑《つ》かれたものは、最初に一種の瘧疾《おこり》にかかったように、時々にひどい悪寒《さむけ》がして苦しみ悩むのである。それが三日四日を過ぎると更に怪し
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