ったが、この村の習いとしてほかの土地のものとは決して婚姻を許さない掟《おきて》になっているので、お熊は母を捨てて逃げた。徳三郎もはじめは旅先のいたずらにすぎない色事《いろごと》で、その女を連れ出して逃げるほどの執心もなかったのであるが、かれに魅《み》こまれたが最後、もうどうしても逃げることの出来ない因果にまつわられていた。お熊はこの土地でいう蛇神《へびがみ》の血統であった。
ここらには蛇神という怖ろしい血統があった。その血をうけて生まれた者は一種微妙の魔力をもっていて、かれらの眼に強く睨まれると其の相手はたちまち大熱に犯される。単にそればかりでなく、熱に悶《もだ》えて苦しんで、さながら蛇のように蜿《のた》うちまわる。蛇神の名はそれから起ったのである。しかし、彼等はいかに眼を大きくして睨んだからといって、それだけでは決して相手に感応させるわけには行かない。それにはかならず、強い感情を伴わなければならない。妬《ねた》む、憎む、怨む、羨む、呪う、慕う、哀《かなし》む、喜ぶ、恐れる。そうした喜怒哀楽の強い感情がみなぎったときに、かれらの眼のひかりは怖るべき魔力を以って初めて相手を魅することが出来るのである。したがって、彼ら自身も故意にその魔力を応用することが出来ない。あいつを一つ苦しめてやろうなどと悪戯《いたずら》半分に睨んだところで、決してその効果はあらわれない。要するにそれは彼の心の奥から湧き出してくる自然の作用で、自分自身にも無理に抑《おさ》えることも出来ず、無理に働かせることも出来ず、唯その自然にまかせるほかはないのである。この村の者がほかの土地の者と結婚しないのも、この不思議な血統が主《おも》なる原因であった。
徳三郎も初めてお熊に逢ったときに、この怪しい熱病に苦しめられて、お熊の手あつい看病をうけた。病いが癒《なお》ってから其の秘密を発見したが、今更どうすることも出来なかった。捨てて逃げようとしても、お熊はどうしても離れない。それを無理にふり放そうとすれば、お熊の睨む眼が怖ろしかった。もう一つには女が蛇神の血統であることを自分から正直に打ち明けて、どうぞ見捨ててくれるなと泣いて口説《くど》かれた時に、かれの心も弱くなった。所詮はこれも因果とあきらめて、徳三郎はお熊を連れて逃げることを決心した。
かれの決心を強めたほかの動機は、かのおそろしい蛇神も箱根を越せ
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