す奴も誘い出す奴だ」
勘蔵はやはり黙ってうつむいていた。
「去年の暮に、備前屋の内風呂が傷んだので、娘はおまえの湯へ来たそうだな」と、半七はまた笑った。「そのときにお前が背中を流してやったか。容貌《きりょう》は好し、年ごろの箱入り娘の肌ざわりはまた格別だからな。とんでもねえ粂《くめ》の仙人が出来上がったものだ。なるほど命賭けで荒熊にむしり付くのも無理はねえ。折角助けた娘は橋場へ行っているあいだに、向うで男が出来てしまった。家へ帰ってもやっぱり橋場が恋しいので、仮病《けびょう》をつかって熊が出るなんて騒いでいる。しかしその計略がうまく運ばないので、娘もひとりで焦《じ》れ込んでいるうちに、内風呂がまた傷んだ。ねえ、そうだろう。そこで又お前の湯へやってくると、粂の仙人が背中をこすりながら旨い相談を持ちかけた。わたくしが橋場へ御案内しましょうかとか何とか親切振って云ったもんだから、若けえ娘はあと先みずに欺されて、ゆうべそっと家をぬけ出すと、外に待っていた奴があって……。それから先はおれも知らねえ。おい、勘蔵。おれにばかりしゃべらせて、なぜ黙っているんだ。前座《ぜんざ》はこのくらいで引きさがるから、あとは真打《しんうち》に頼もうじゃあねえか」
背中をぽんと叩かれて、勘蔵はあぶなく倒れかかった。
「ここまで漕ぎ付ければ、この話も大抵おしまいです」と、半七老人はひと息ついた。「勘蔵の白状によると、前の年の暮に備前屋の娘の綺麗な肌をみたときには、まだどうしようというほどの煩悩《ぼんのう》も起らなかったのですが、火事の後片付けの済むまで娘は橋場の親類へ立ち退いているうちに、そこの店の若い者と出来合ってしまった。なんにも知らない親たちは娘の仮病を心配して、もう一度橋場へやろうかと云っていたが、やっぱり其の儘になっていると、店の者のうちに何処からどうして聞き出したのか橋場の一件を知っている者があって、それが男湯へ来た時に勘蔵にうっかり[#「うっかり」に傍点]しゃべったので、勘蔵は急に気を悪くした。そこへちょうど風呂がまた毀《こわ》れて、娘が車湯へはいりに来たので、勘蔵はもうたまらなくなって、その背中を流しながらうまく誘い出したんです」
「娘はひとりで女湯へ来たんですか」と、わたしは訊《き》いた。
「いいえ、一人じゃありません。女中が一緒に付いて来たんですが、こいつが柘榴口《ざくろぐち》の中で町内の人と何かおしゃべりをしている間に、勘蔵がこっそりと娘の耳へ吹き込んでしまったんです。娘ももうちっと仮病をつかっていれば、なんにも間違いはなかったのかも知れませんが、陽気もだんだん暑くなって来るので、もう我慢が出来なくなって、うっかり車湯へ出て行ったのが運の尽きです。橋場へ案内してやると嘘をついて、夜ふけに娘を誘い出して、勘蔵は品川にいる自分の友達の家へ連れ込もうとしたんですが、橋場と品川ではまるで方角が違うので、なんぼ世間知らずの娘でも少し変に思ったらしく、途中でぐずぐず云い出したので、勘蔵もだんだんじれ込んで、無理無体に娘を引き摺って行こうとすると、娘はいよいよ怖くなって、声をあげて逃げ出すという始末。いや、こうなるとおそろしいもので、勘蔵はもう逆上《のぼ》せてしまったんです。もし云うことを聞かないときには嚇《おど》かして手籠めにする積りで、隠して持っていた小刀をいきなり抜いて、いっそひと思いにと娘の胸をえぐってしまった。勿論、自分も一緒に死ぬ気であったが、そこへ六三郎と百助が駈けて来たので、急に怖くなって逃げ出したというわけです」
「そこで、その熊の胆を盗み出したのは誰だか判らないのですか」と、わたしは又訊いた。
「この方のお話をすると長くなりますから、手っ取り早く申し上げると、熊の死骸を掘り出して熊の胆を盗んだ奴は、備前屋の番頭の四郎兵衛でした。昼間のうちに六三郎から死骸を埋めた場所を聞いて置いたので、日の暮れるのを待って忍んで行って、ひと足さきにその熊の胆を占《せし》めてしまったのです。いや、どうも悪い奴で……。それが露顕して、四郎兵衛もとうとう召し捕られましたが、品川の伝吉という奴だけはどこへか姿をかくしてしまいました。吟味の上で、勘蔵は無論に獄門、六三郎と百助と四郎兵衛は三人同罪ということになりました。今と違って、火事場どろぼうは重い処刑になるんですが、盗んだ品が箪笥《たんす》長持や夜具|蒲団《ふとん》のたぐいでなく、なにしろ熊の死骸というのですから、罪も大変に軽くなって、たしか追放ぐらいで落着《らくぢゃく》したように聞いています」
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(三)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年5月20日初版1刷発行
1997(平成9)年5月15日11刷発行
※旺文社文庫版を元に入力し、光文社文庫版に合わせて校正した。この過程で確認した、両者の相違を示す。
・四郎兵衛おとなしく答えた。[#旺文社文庫版「四郎兵衛もおとなしく答えた。」]
・小博奕を打っているやくざな野郎[#旺文社文庫版「小博奕を打っているやくざ野郎」]
入力:網迫
校正:おのしげひこ
2000年7月6日公開
2004年2月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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