一軸を手放すというのも、自分の知行所がこの秋ひどい不作であったので、その村方の者どもを救ってやるためであるということが判った。それほどの人物が追剥ぎ同様の不埒を働く筈がない。半七は更にほかの方面に手をつけなければならなくなった。
「おい、仙吉。おめえに少し用がある」と、彼は子分の一人を呼んだ。「今夜からふた晩三晩、あの化け銀杏の下へ行って張り込んでいてくれ。それも黙っていちゃあいけねえ。なにか鼻唄でも歌って、木の下をぶらりぶらり行ったり来たりしているんだ。寒かろうが、まあ我慢してやってくれ。おれも一緒にいく」
日が暮れるのを待って半七と仙吉は松円寺の塀の外へ行った。半七は遠く離れて、仙吉ひとりが鼻唄を歌いながら木の下をうろ付いていたが、四ツ(午後十時)を過ぎる頃まで何も変ったことはなかった。
「百両の仕事をして、ふところがあったけえので、当分出て来ねえかな」
それでも二人は毎晩|根《こん》よく網を張っていると、十一月の晦日《みそか》の宵である。まだ五ツ(午後八時)を過ぎたばかりの頃に、低い土塀を乗り越して一つの黒い影のあらわれたのを、半七は星明かりで確かに見つけた。仙吉は相変らず鼻唄を歌って通った。黒い影は塀のきわに身をよせてじっと窺っているらしかったが、忽ちひらりと飛びかかって仙吉の襟髪をつかんだ。覚悟はしていながらも余り器用に投げられたので、仙吉は意気地なくそこへへたばってしまった。それでも物に馴れているので、かれは倒れながら相手の足を取った。
それを見て半七もすぐに駈け寄ったが、もう遅かった。黒い影は仙吉を蹴放して、もとの塀のなかへ飛鳥のように飛び込んでしまった。
「畜生。ひどい目に逢わせやがった」と、仙吉は泥をはらいながら起きた。「だが、親分。もう判りました。あんないたずらをする奴は寺の坊主に相違ありませんよ。わっしのそばへ寄って来たときに、急に線香の匂いがしました」
「おれもそうらしいと思った。今夜は先ずこれでいい」
相手が出家である以上、町方《まちかた》でむやみに手をつけるわけにも行かないので、半七はそれを町奉行所へ報告すると、町奉行所から更にそれを寺社奉行に通達した。寺社奉行の方で取り調べると、松円寺には当時住職がないので、留守居の僧が寺をあずかっていたのである。それは円養という四十ばかりの僧で、ほかに周道という十五六の小坊主と、権七という五十ばかりの寺男がいる。そのなかで最も眼をつけられたのは周道であった。かれは年の割に腕っ節が強く、自分でも武蔵坊弁慶の再来であるなどと威張っている。きっとこいつが化け銀杏の振りをして、往来の人を嚇《おど》したのであろうと見きわめを付けられた。
寺社奉行の吟味をうけて、周道は正直に白状した。この寺の銀杏が化けるという伝説のあるを幸いに、彼はときどきに忍び出て、自分の腕だめしに往来の人を取って投げたのである。現に二十四日の雨の宵にも通りがかりの男を投げ倒したことがあると申し立てた。その男は河内屋の忠三郎に相違ない。しかし周道は単にその男を投げ出しただけで、所持品などにはいっさい手をつけた覚えはないと云い張った。何さま逞ましげな悪戯《いたずら》小僧ではあるが、まだ十五六の小坊主が百両の金を奪い、あわせて羽織まで剥ぎ取ろうとは思えないので、彼は吟味の済むまで入牢《じゅろう》を申し付けられた。
周道の白状によって考えると、彼がいたずらに忠三郎を投げ出したあとへ、何者か来合わせて其の所持品を奪い取ったのであろうというので、その探索方を再び半七に云い付けられた。しかしこの探索はよほど困難であった。寺の奴等の仕業ならば格別、単に周道が忠三郎を投げ倒して気絶させたあとへ、あたかも通りかかった者がふとした出来心で奪いとって行ったとすると、差し当りなんにも手掛りがない。半七もこれには少し行き悩んでいると、ここに又一つ事件が起った。
それはこの化け銀杏の下へ女の幽霊が出るというのであった。現に本郷二丁目の鉄物屋《かなものや》の伜が友達と二人づれで松円寺の塀外を通ると、そこに若い女がまぼろしのように立ち迷っていた。さなきだにこの頃はいろいろの噂が立っている折柄であるから、二人は胆《きも》を冷やして怱々《そうそう》に駈けぬけてしまったが、鉄物屋の伜はその晩から風邪《かぜ》を引いたような心持で床に就いているというのである。これも何かの手がかりになるかも知れないと思って、半七はその鉄物屋をたずねて病中の伜に逢った。せがれは清太郎といって今年十九の若者であった。
「おまえさんが見たという幽霊はどんなものでしたえ」
「わたくしも怖いのが先に立って、たしかに見定めませんでしたが、提灯の火にぼんやり映ったところは、なんでも若い女のようでした」
「女はこっちを見て笑いでもしたのかえ」
「いいえ、別にそんなこともありませんでしたが、なにしろ怖いので忽々に逃げて来ました。もう四ツ(午後十時)に近い頃に、女がたった一人で、場所もあろうに、あの化け銀杏の下に平気で立っている筈がありません。あれはどうして唯者じゃあるまいと思われます」
「そうですねえ」と、半七も考えていた。「そこで、その女は髪の毛でも散らしていましたかえ」
「髷《まげ》はなんだか見とどけませんでしたが、髪は綺麗に結っていたようです」
もしや狂女ではないかと想像しながら、半七はいろいろ訊いてみたが、清太郎はふた目とも見ないで逃げ出してしまったので、なにぶんにも詳しい返答ができないと云った。彼は飽くまでもこれを化け銀杏の変化《へんげ》と信じているらしいので、半七も結局要領を得ないで帰った。
「化け銀杏め、いろいろに祟る奴だ」
彼は肚《はら》のなかでつぶやいた。
三
鉄物屋の清太郎が見たという若い女は、気ちがいでなければ何者であろう。おそらく寺の留守坊主に逢いに来る女ではあるまいかと半七は鑑定した。かれは子分どもに云いつけて、その坊主の行状を探らせたが、円養は大酒呑みでこそあれ、女犯《にょぼん》の関係はないらしいとのことであった。女の幽霊の正体は容易に判らなかった。
十二月十六日の朝である。半七が朝湯から帰ってくると、河内屋の番頭の忠三郎が待っていた。
「やあ、番頭さん。お早うございます」と、半七は挨拶した。「例の一件はなにぶん捗《はか》がいかねえので申し訳がありません。まあ、もう少し待ってください。年内には何とか埒《らち》をあけますから」
「実はそのことで出ましたのでございます」と、忠三郎は声をひそめた。「昨晩わたくしの主人が或るところで彼《か》の一軸《いちじく》をみましたそうで……」
「へえ、そうですか。それは不思議だ。して、それが何処にありましたえ」
忠三郎の報告によると、ゆうべ芝の源助|町《ちょう》の三島屋という質屋で茶会があった。河内屋の主人重兵衛も客によばれて行った。その席上で、三島屋の主人がこの頃こういうものを手に入れたと云って、自慢たらだらで出してみせたのが彼《か》の探幽斎の鬼の一軸であった。稲川家の品は忠三郎が途中で奪われてしまって、重兵衛はまだその実物をみないのであるが、用人の話と忠三郎の話とを綜合してかんがえると、その図柄といい、表装といい、箱書《はこがき》といい、どうもそれが稲川家の宝物であるらしく思われてならなかった。しかもそれが贋物《にせもの》でない、たしかに狩野探幽斎の筆であると重兵衛は鑑定した。よそながら其の品の出所《しゅっしょ》をたずねると、牛込|赤城下《あかぎした》のある大身《たいしん》の屋敷から内密の払いものであるが、重代の品を手放したなどということが世間にきこえては迷惑であるから、かならず出所を洩らしてくれるなと頼まれているので、その屋敷の名を明らさまに云うことは出来ないとのことであった。
その以上に詮議のしようもないので、重兵衛はそのまま帰って来たが、なにぶんにも腑に落ちないので、とりあえず半七の処へ報《し》らせてよこしたのであった。主人の話によって考えると、どうしてもそれは稲川家の品である。図柄も表装も箱書も寸分違わないと忠三郎も云った。
「いよいよ不思議ですね」と、半七も眉をよせた。「その三島屋というのはどんな家《うち》ですえ」
三島屋は古い暖簾《のれん》で、内証も裕福であるように聞いていると、忠三郎は説明した。主人又左衛門は茶の心得があるので、河内屋とも多年懇意にしているが、これまで別に悪い噂を聞いたこともない。まさか三島屋一家の者がそんな悪事を働く筈もないから、おそらく不正の品とは知らずに何処からか買い入れたものであろうと彼は云った。
「そうかも知れませんね」と、半七はしばらく考えていた。「どっちにしても、それが確かに稲川の屋敷の品だかどうだか、それをよく詮議して置かなければなりませんよ。さもないと、物が間違いますからね。おまえさんがみれば間違いもなかろうが、念のために稲川の屋敷の御用人を一緒に連れて行ったらどうです。二人がみれば間違いはありますまい。だが、最初から表向きにそんなことを云って、万一違っていた時には、おたがいに気まずい思いをしなければなりませんからね」
「ごもっともでございます。主人も、もし間違った時に困ると心配して居りました」
「それだから、おまえさんが御用人を連れて行って、うまく話し込むんですね。このお方は書画が大変にお好きで、こちらに探幽の名作があるということを手前の主人から聞きまして、ぜひ一度拝見したいと申されるので、押し掛けながら御案内しましたとか何とか云えば、向うも大自慢だから喜んで見せるでしょう。もし又なんとか理窟を云って、飽くまでも見せるのを拒《こば》むようならばちっとおかしい。ねえ、そうじゃありませんか。そうなれば、また踏ん込んで表向きに詮議も出来ます。どっちにしても、御用人を連れて行って一度見て来てください」
「承知いたしました」
忠三郎は怱々に帰った。
その晩にでも再びたずねて来るかと、半七は心待ちに待っていたが、忠三郎は姿をみせなかった。その明くる日も来なかった。おそらく用人の方に何か差し支えがあって、すぐには行かれなかったのであろうと思いながらも、半七は内心すこし苛々《いらいら》していると、その晩に子分の仙吉が顔を出した。
「親分。探幽の一件はまだ心当りが付きませんかえ」
「むむ。ちっとは心当りがねえでもないが、どうもまだしっかりと掴むわけにも行かねえので困っているよ」
「そうですか。いや、それについて飛んだお笑いぐさがありましてね。なんでも物を握って見ねえうちは、糠《ぬか》よろこびは出来ませんね」と、仙吉は笑った。
「おめえ達のお笑いぐさはあんまり珍らしくもねえが、どうした」と、半七はからかうように訊《き》いた。
「それがおかしいんですよ。わっしの町内に万助という糴《せり》呉服屋があるんです。こいつはちっとばかり書画や骨董《こっとう》の方にも眼があいているので、商売の片手間に方々の屋敷や町屋《まちや》へはいり込んで、書画や古道具なんぞを売り付けて、ときどきには旨い儲けもあるらしいんです。その万助の奴がどこからか探幽の掛物を買い込んだという噂を聞いて、だんだん調べてみると、それがおまえさん、鬼の図だというんでしょう」
「むむ」と、半七も少しまじめになって向き直った。「それからどうした」
「それからすぐに万助の家へ飛び込んで、よく調べてみると、万助の奴め、ぼんやりしている。どうしたんだと訊くと、その探幽が贋物《にせもの》だそうで……」
半七も思わず笑い出した。
「まったくお笑いぐさですよ」と、仙吉も声をあげて笑った。「なんでも二、三日まえ、あいつが御成道《おなりみち》の横町を通ると、どこかの古道具屋らしい奴と紙屑屋とが往来で立ち話をしている。なに心なく見かえると、その古道具屋が何だか古い掛物をひろげて紙屑屋にみせているので、そばへ寄って覗いてみると、それが鬼の図で狩野探幽なんです。万助の奴め、そこで急に商売気を出して、その古道具屋にかけ合って、なんでも思い切って踏み倒して買って来たんです。古道具屋の方も、探幽か何だか
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