端である。氷のような風が梢からどっと吹きおろして来たかと思うと、かれのすくめた襟首を引っ掴んで、塀ぎわの小さい溝《どぶ》のふちへ手ひどく投げ付けた者があった。忠三郎はそれぎりで気を失ってしまった。
 風は再びどっと吹きすぎると、化け銀杏は大きい身体《からだ》をゆすって笑うようにざわざわと鳴った。

     二

「もし、おまえさん。どうしなすった。もし、もし……」
 呼び活《い》けられて忠三郎は初めて眼をあくと、提灯をさげた男が彼のそばに立っていた。男は下谷《したや》の峰蔵という大工で、化け銀杏の下に倒れている忠三郎を発見したのであった。
「ありがとうございます」
 云いながら懐中《ふところ》へ手をやると、主人から別に渡された百両の金は胴巻ぐるみ紛失していた。驚いて見廻すと、抱えていた一軸も風呂敷と共に消えていた。自分の羽織も剥《は》がれていた。忠三郎は声をあげて泣き出した。
 峰蔵は親切な男で、駒込《こまごめ》まで行かなければならない自分の用を打っちゃって置いて、泥だらけの忠三郎を介抱して、ともかくも本郷の通りまで連れて行って、自分の知っている駕籠屋にたのんで彼を河内屋まで送らせて
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