久次郎を奥へ呼んだ。相変らずぼんやりして店へ坐っていた久次郎は、母のまえに出てその詮議をうけたが、かれの答弁はすこぶるあいまいであった。尊い行者を涜そうとした事実について、彼はそれを絶対に否認しようともしなかったので、母はいよいよ悲しみ嘆いて、神罰のおそろしいことをくれぐれも云い聞かせた。今後その汚れた心を入れかえて、身に付きまとった禍いを祓《はら》わなければならないと、涙ながらに説き諭《さと》した。久次郎は黙っておとなしく聴いていた。
 日が暮れてから久次郎はいつものようにふらりと何処へか出て行ったが、夜が更けても帰らなかった。伊勢屋でも心配して、念のために式部のところへ聞きあわせてやると、久次郎はきのうから一度もみえないという返事であった。久次郎はその晩も帰らなかった。そうして、今朝になってもまだ帰らないので、伊勢屋ではいよいよ不安を感じた。式部が掛け合いのことはお豊ひとりの胸に秘めて、店の者にはいっさい秘密にしてあったのであるが、もう斯《こ》うなっては匿《かく》しても隠されないので、お豊は番頭どもを呼びあつめて、その秘密を打ちあけた。番頭共には差し当ってどうという確かな見当も付かなかったが、おそらく自分の不埒を恥じ悔んで、面目なさの家出であろうということに諸人の意見が一致した。
 家出の動機がそれであるとすると、久次郎の身のうえにかかる不安はいよいよ大きくなって来た。お豊は狂気のようになって騒ぎ出した。かれはすぐに祈祷所へ駈けて行って、久次郎のゆくえを占《うらな》って貰うことにした。番頭の重兵衛は瀬戸物町の源太郎のところへ駈けつけて、秘密にその探索方をたのんだ。親類そのほかの心当りへも使を出した。
 この報告を聞いて、半七は膝を立て直した。
「それじゃあ、いよいよ思い切って手入れをしなけりゃあなるめえ。伊勢屋の番頭が瀬戸物町へ駈け込んで、そっちから何かちょっかいを出されると面倒だ」
「すぐにやりますかえ」と、多吉は訊《き》いた。
「むむ、すぐに取りかかろう。相手はその行者と、式部とかいう奴と、藤江という女だ。まずそれだけだな。いや、かかり合わねえといっても、女中ふたりも逃がしちゃあいけねえ。まだほかにどんな奴が忍んでいるかも知れねえ。源次は表向き面出しをするわけにも行かねえんだから、多吉一人じゃあちっと手不足かも知れねえよ。善八でも呼んで来い」
「善八ひとりでたくさんですかえ」
「それでよかろう。なんといっても相手は女だ。そんなに大勢でどやどや押し掛けて行くのも見っともねえ」
 多吉はすぐに子分の善八を呼びに行った。源次はその後の模様を探るために、再び炭団伊勢屋の方へ出て行った。半七が身支度をして神田の家を出たのは朝の四ツ(午前十時)過ぎで、会式桜《えしきざくら》もまったく咲き出しそうな、うららかな小春|日和《びより》であった。
 半七は途中で買物をして、更になにかの支度をして、日本橋茅場町の祈祷所へたずねてゆくと、以前は誰が住んでいたか知らないが、新らしく作り直したらしく門柱には神教祈祷所という大きな札がかけられて、玄関先に注連《しめ》が張りまわしてあった。六畳ばかりの玄関には十四五人の男や女が押し合うように詰めかけていて、坐り切れない人達は式台の上までこぼれ出していた。半七もおとなしくそこに坐って、自分の順番のくるのを待っていると、そのあとから又五、六人がだんだんはいって来た。そのなかには子分の善八もまじめな顔をしてまじっていた。かれは勿論半七の方を見返りもしないで、ほかの人達となにか小声で話しているらしかった。
 一人ひとりの祈祷や占いが可なり長くかかるので、半七は一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《いっとき》ほども待たされたが、それでも根《こん》よく辛抱していた。先の人が立ち去ると、入れ代りのように後の人がまた詰めかけて来るので、玄関にはいつでも十四五人が待ちあわせている。なるほど、なかなか流行ることだと半七は思っていると、やがて自分の番がまわって来て、かれは正面の祈祷所へ通された。
 祈祷所は十五六畳ばかりの座敷で、その構えは先に多吉が報告した通りであった。正面には御簾《みす》を垂れて、鏡や榊や幣束《へいそく》などもみえた。信心者からの奉納物らしい目録包みの巻絹や巻紙や鳥や野菜や菓子折や紅白の餅なども其処《そこ》らにうず高く積まれてあった。若い美しい行者は藁の円座《えんざ》のようなものの上に坐って、手には幣束をささげていた。少し下がったところに、それが彼《か》の式部というのであろう、五十ばかりの如何にも京侍らしい惣髪の男が、白い袴に一本の刀をさして行儀ただしく控えていた。神前をはばかるのか、かれは絶えずうつむいているが、ときどき鋭い上目《うわめ》使いをしてあたりに注意しているらしいのが半七の眼についた
前へ 次へ
全9ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング