だそうです。だが、その中でたった一人かかさずに来る奴があります」
「紙屋の息子か」
「あ、源次の奴ほじくり出しましたかえ。あいつ油断がならねえ」と、多吉は鼻毛をぬかれたような形で少してれ[#「てれ」に傍点]た。「じゃあ、その方は大抵御承知ですね」
「だが、まあ話してみろ」
 多吉の報告も源次とあまり違わなかった。そうして、紙屋の久次郎は色仕掛けでたくさんの祈祷料をまきあげられているに相違ないと云った。
「そうだろう。誰が考えても、落ち着くところは同じことだが、ただ困るのは徒党の奴らだ」と、半七は云った。「夜なかに祈祷をたのむ振りをして、姿をかえて入り込むのじゃねえかと思うが、これも此の頃はちっとも来ねえというのじゃあ仕方がねえ。行者の奴らをつかまえるのは何日《いつ》でも出来る。あいつ等はまあ当分は生簀《いけす》にして置いて、ほかから来る奴らに気をつけろ」
 多吉は承知して帰った。
 それから半月ほど経ったが、多吉も源次も思わしい成績をあげることが出来なかった。その報告はいつも同じことで、夜になっては紙屋の息子のほかに誰も出這入りするものは無いとのことであった。行者の家でも女中が買物に出るほかには、誰も外出するものはないらしかった。
「半七、どうだ。貴様にしてはちっと足が鈍《のろ》いな」
 八丁堀同心の岡崎からときどきに催促されて、半七も気が気でなかった。こうなったら仕方がない。まず行者一家の者どもを引き挙げて、それをぶっ叩いて白状させるよりほかあるまいと、かれは内々でその手配りにかかっていると、あしたが池上《いけがみ》のお会式《えしき》という日の朝、多吉があわただしく駈け込んで来た。
「親分、紙屋の息子が二、三日前から姿を隠したようです」
「行者はどうした」と、半七はすぐに訊いた。「まさかに駈け落ちをしたわけでもあるめえ」
「行者はやっぱり家《うち》にいます。それについて、行者の家の式部という奴がなにか紙屋へ掛け合いに行ったらしいんです」
 そう云っているところへ源次も来た。

     三

 今度の事件については、多吉はとかく下っ引の源次に先《せん》を越されていた。源次は多吉の報告以上に、紙屋の息子が姿をかくした事件を詳しく知っていた。
 源次の話によると、きのうの午《ひる》過ぎにかの式部が炭団《たどん》伊勢屋へたずねて来て、後家のお豊に厳重な掛け合いを持ち出した。それは当家の伜久次郎どのがお姫様に対して無礼を働いたというのであった。久次郎どのには怪しい獣の悪霊《あくりょう》が付きまとっているので、それを祓《はら》うために毎夜秘密の祈祷を行なっていることは、おふくろ殿もかねて御存じの筈である。本来ならば一七日の祈祷で当然その禍いを祓い得べきであるのに、今度の祈祷に限って不思議にその験《げん》がみえない。更に二七日、三七日、四七日と祈りつづけても、やはりその験のあらわれないのは甚だ不思議に思っていたところが、今になってその仔細が初めて判った。当人の久次郎どのが汚れた心を持っていたからである。久次郎どのは毎夜かかさず通って来るのは、まことの心からの信心ではない。実はお姫様に懸想《けそう》していたのである。現にゆうべの祈祷の休息のあいだに、彼はお姫様をとらえて猥《みだ》らなことを云い出した。実に言語道断の不埒《ふらち》である。
 お姫様は勿論それを取り合われる筈はなかった。持っていた幣束《へいそく》で彼の面を一つ打ったままで、無言で奥の間へはいってしまわれたが、それを知った拙者はすぐにその場へ踏み込んで、久次郎の不埒をきびしく叱って、今後決して、参ることは相成らぬと襟髪をつかんで表へ突き出してしまった。久次郎どのは何と云っているか知らないが、事実は全くこの通りであって、お姫様を涜《けが》そうとするのは神を涜そうとするも同じことである。久次郎どの如き言語道断の不埒者はもとより相手にはならない。改めておふくろ殿にお掛け合いをいたすために、こんにち罷《まか》り越した次第であると、式部は形を正しゅうしておごそかに云った。
 思いもよらない掛け合いをうけて、お豊は魂が消えるほどにびっくりした。殊に自分は飽くまでもかの尊い行者を信仰しているだけに、わが子の不埒が重々面目なかった。面目ないというよりも、かれは実におそろしかった。彼女は畳に額《ひたい》をうずめて、恐れかしこんでわが子の罪を幾重《いくえ》にも詫びた。かれは当然自分ら親子のうえに落ちかかって来るべき神の御罰をのがれるために、あらためて謝罪の祈祷を嘆願した。祈祷料の二百金は式部のまえに差し出された。式部は容易にそれに手を触れなかったが、結局お姫様の思召しをうけたまわるまで、ともかくもお預かり申して置くということになって、その二百両を受け取って帰った。
 式部の帰ったあとで、お豊はすぐ
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