半七捕物帳
女行者
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)会釈《えしゃく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)品川|宿《じゅく》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日+向」、第3水準1−85−25]
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一
明治三十二年の秋とおぼえている。わたしが久松町の明治座を見物にゆくと、廊下で半七老人に出逢った。
「やあ、あなたも御見物ですか」
わたしの方から声をかけると、老人も笑って会釈《えしゃく》した。そこはほんの立ち話で別れたが、それから二、三日過ぎてわたしは赤坂の家をたずねた。半七老人の劇評を聞こうと思ったからである。そのときの狂言は「天一坊《てんいちぼう》」の通しで、初代左団次の大岡越前守、権十郎の山内伊賀之助、小団次の天一坊という役割であった。
わたしの予想通り、老人はなかなかの見巧者《みこうしゃ》であった。かれはこの狂言の書きおろしを知っていた。それは明治八年の春、はじめて守田座で上演されたもので、彦三郎の越前守、左団次の伊賀之助、菊五郎の天一坊、いずれも役者ぞろいの大出来であったなどと話した。
「御承知の通り、江戸時代には天一坊をそのままに仕組むことが出来ないので、大日坊とか何とかいって、まあいい加減に誤魔化していたんですが、明治になったのでもう遠慮はいらないということになって、講釈師の伯円が先ず第一に高座《こうざ》で読みはじめる。それが大当りに当ったので、それを種にして芝居の方でも河竹が仕組んだのですが、それが又大当りで、今日までたびたび舞台に乗っているわけですが、やっぱり書きおろしが一番よかったようですな。いや、こんなことを云うから年寄りはいつでも憎まれる。はははははは」
芝居の話がだんだん進んで、天一坊の実録話に移って来た。
「天一坊のことはどなたも御承知ですが、江戸時代には女天一坊というのも随分あったもんですよ」と、老人は云った。「尤《もっと》もそこは女だけに、将軍家の御落胤《ごらくいん》というほどの大きな触れ込みをしないで、男の天一坊ほどの評判にはなりませんでしたが、小さい女天一坊は幾らもありましたよ。そのなかで、まず有名なのは日野家のお姫様一件でしょう。あれはたしか文化四年四月の申渡《もうしわた》しとおぼえていますが、町奉行所の申渡書では品川|宿《じゅく》旅籠屋《はたごや》安右衛門|抱《かかえ》とありますから、品川の貸座敷の娼妓ですね。その娼妓のお琴《こと》という女が京都の日野中納言家《ひのちゅうなごんけ》の息女だと云って、世間の評判になったことがあります。その頃、公家《くげ》のお姫様が女郎《じょろう》になったというのですから、みんな不思議がったに相違ありません。お琴は奉公中に主人の店をぬけだして、浅草源空寺門前の善兵衛というものを家来に仕立て、例の日野家息女をふりまわして、正二位|内侍局《ないじのつぼね》とかいう肩書《かたがき》で方々を押し廻してあるいていることが奉行所の耳へきこえたので、お琴も善兵衛も吟味をうけることになりました。しかし奉行所の方でも大事を取って、一応念のために京都へ問いあわせたのですが、日野家では一切知らぬという返事であったので、結局お琴は重追放、善兵衛は手錠を申し渡されて、この一件は落着《らくぢゃく》しました。なぜそんな偽りを云い触らしたのか判りませんが、おそらく品川の借金をふみ倒した上で、なにか山仕事を目論《もくろ》もうとして失敗したもので、つまりこんにちの偽《にせ》華族というたぐいでしたろう。それが江戸じゅうの噂になったので、狂言作者の名人南北がそれを清玄《せいげん》桜姫のことに仕組んで、吉田家の息女桜姫が千住《せんじゅ》の女郎になるという筋で大変当てたそうです。その劇場は木挽町《こびきちょう》の河原崎座で『桜姫東文章《さくらひめあずまぶんしょう》』というのでした。いや、余計な前置きが長くなりましたが、これからお話し申そうとするのは、その日野家息女一件から五十幾年の後のことで、文久元年の九月とおぼえています」
八丁堀同心岡崎長四郎からの迎えをうけて、半七はすぐにその屋敷へ出かけて行った。それは秋らしい雨のそぼ降る朝であった。
「悪いお天気で困ります」
「よく降るな。秋はいつもこれだ、仕方がねえ」と、岡崎は雨に濡れている庭先をながめながら欝陶《うっとう》しそうに云った。
「いや、この降るのに気の毒だが、ちっと調べて貰いたい御用がある。この頃、茅場町《かやばちょう》に変な奴があるのを知っているか」
「へえ」と、半七は首をかしげた。
「尤《もっと》も、この頃は変な奴がざらに転《ころ》がっているか
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