のようにみえた。権十郎息子の顔色がひどく蒼ざめて来た。
「まあ、こういうわけで、店の若い者や小僧なんぞは、若旦那は気が違ったらしいと云っているんです」と、源次は説明した。
「むむ、気が違ったかも知れねえ」と、半七はほほえんだ。「相手はすばらしく美しい行者というじゃあねえか」
「そうです、そうです。むこうが若い美しい行者で、こっちが権十郎息子というんですからね」と、源次[#「源次」は底本では「源次郎」]も笑った。
 しかし半七は笑ってばかりもいられなかった。単にこれだけの事件であるならば、問題は案外に単純であるが、かの怪しい行者は勤王とか討幕とか、京都の公家の娘とかいう、大きな背景を持っているらしいだけに、半七は迂濶《うかつ》に彼女に手をつけることが出来なかった。軽はずみのことをして、たとい本人だけを引き挙げたところで、ほかの徒党を取り逃がしてしまっては何もならない。うまく工夫して彼等の一類を一網に狩りあげることを考えなければならない。半七は源次に云いつけて、これから毎夜茅場町の近所に網を張って祈祷所へ出入りするものを偵察させることにした。
 その日の夕方になって、多吉が再び来た。
「親分、どうも思うような種はあがりませんよ。女の行者はお局《つぼね》様とかお姫《ひい》様とかいっているだけで、ほんとうの名はわかりません。五十ばかりの家来の男は式部といっているそうで、どうも上方《かみがた》生まれに相違ないようです。十五六の小娘は藤江といって、これもなかなか容貌《きりょう》がいいんですけれど、行者のほんとうの妹か身寄りの者か、そこはよく判らないそうです。台所働きはお由とお庄というんですが、これは飯炊きや水汲みに追い使われているだけで、奥の方のことは何も知らないようです」
「ゆうべも云ったことだが、祈祷をたのむ者のほかに誰も出這入りするらしい様子はねえのか」と、半七は念を押して訊いた。
「わっしもそこが大切だと思って近所の者によく訊いてみたり、お由という女中が外へ出るところを捉《つか》まえて、それとなく探りを入れて見たんですが、まったく誰も出這入りをするらしい様子がないんです」
「夜になって祈祷をたのむ奴が幾人ぐらい来る」
「それがこの一と月ほどは一人も来ねえそうです。頼む奴が来ねえのじゃねえ、行者の方でなにか身体《からだ》がわるいとかいうので、夜の祈祷はみんな断わっているん
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