の通りに舐めてやった。買った奴は徳法寺の善周という坊主で、これも又その筆を舐めた。毒の廻り方が早かったので、娘はその晩に死んだ。坊主の方はあくる朝になって死んだ。心中でもなんでもねえ。一本の筆が廻り廻って二人の人間の命を取るようになったので、娘は勿論だが、坊主も飛んだ災難で、訳もわからずに死んでしまったんだ。可哀そうとも何とも云いようがねえ」
「なるほど、そんな理窟ですかえ」と、源次は溜息をついた。「それにしても何故《なぜ》そのお丸という女が途方もねえことを巧んだのでしょうかね」
「それはまだ確かに判らねえが、おれの鑑定じゃあ多分そのお丸という女は、上州屋の伜と情交《わけ》があって、つまり嫉妬から筆屋の娘を殺そうとしたんだろうと思う。だが、上州屋へ嫁に行くというのは妹の方で、殺されたのは姉の方だ。ここが少し理窟に合わねえように思われるが、お丸という女の料簡じゃあ、そこまでは深く考えねえで、なんでも売り物の筆に毒を塗っておけば、妹の娘が舐めるものと一途《いちず》に思い込んでいたのかも知れねえ。年の若けえ女なんていうものは案外に無考えだから、おまけにもう眼が眩《くら》んでいるから、それできっと仇が打てるものと思っていたんだろう。厄介なことをしやあがった。人間ふたりを殺してどうなると思っているんだか、考えると可哀そうにもなるよ」
半七も溜息をついた。
「そうなると、その生薬屋に奉公している弟というのも調べなければなりませんね」と、源次は云った。
「勿論だ。おれがすぐに行って来る」
支度をして、半七はすぐに両国へゆくと、その薬種屋は広小路に近いところにあって、間口も可なりに広い店であった。店では三人ばかりの奉公人が控えていて、帳場には二十二三の若い男が坐っていた。
「こちらに宗吉という奉公人がいますかえ」と、半七は訊いた。
「はい、居ります。唯今奥の土蔵へ行って居りますから、しばらくお待ちください」と、番頭らしい男が答えた。
店に腰をかけて待っていると、やがて奥から十四五の可愛らしい前髪が出て来た。
「おい、おめえは宗吉というのか。ちょいと番屋まで来てくれ」
「はい」と、宗吉は素直に出て来た。その様子があまり落ち着いているので、半七もすこし案外に思った。
町内の自身番へ連れて行って、半七は宗吉を詮議したが、その返事はいよいよ彼を失望させた。自分の姉は馬道の上州屋に奉公しているが、姉はちっとも自分を可愛がってくれない。したがって今までに姉から何も頼まれたことはない。姉はお洒落《しゃれ》でお転婆《てんば》だから両親にも兄にも憎まれている。上州屋の使で、自分の店へ薬を買いに来ることはあっても、自分は碌に口もきかないと、宗吉はしきりに姉の讒訴《ざんそ》をした。その申し立てはいかにも子供らしい正直なものであった。いくら嚇しても賺《すか》しても宗吉はなんにも知らないと云った。
「嘘をつくと、てめえ、獄門になるぞ」
「嘘じゃありません」
宗吉はどうしても知らないと強情を張り通していた。それがまったく嘘でもないらしいので、半七はあきらめて彼をゆるして帰した。それから馬道へ行って上州屋をたずねると、お丸は一と足ちがいで使に出たということであった。
下女を呼び出して、それとなく探ってみると、ここでもお丸の評判はよくなかった。年も若いし、虫も殺さないような可愛らしい顔をしているが、人間はよほどお転婆で身持もよろしくない。現に家《うち》の若旦那ともおかしい素振りが見える。そればかりでなく、ほかにも二、三人の情夫《おとこ》があるという噂もきこえている。そんなふしだらな奉公人が暇を出されないというのも、うまく若旦那をまるめ込んでいるからであると、彼女の評判はさんざんであった。勿論それには女同士の嫉妬もまじっているのであろうが、大体に於いて弟の申し立てと符合しているのをみると、お丸という女が顔に似合わないふしだらな人間であるのは疑いのない事実であるらしかった。
半七は下女の口から更にこういう事実を聞き出した。上州屋の女房は両国の薬種屋の媒介《なかだち》でここへ縁付いたもので、その関係上、多年親類同様に附き合っている。馬道からわざわざ薬を買いにゆくのもその為である。薬種屋には与之助という今年二十二の息子があって、上州屋へも時々遊びに来る。お丸がその与之助に連れられて、両国の観世物などを観に行ったことがあるらしいとの事であった。
毒物の出所もそれで大抵判ったので、半七は又引っ返して両国へゆくと、宗吉は店さきに水を打っていた。息子らしい男のすがたは帳場には見えなかった。
「おい、若旦那はどうした」と、半七は宗吉に訊いた。
「わたしが番屋から帰って来たら、その留守にどこへか行ってしまったんです」と宗吉は云った。
ほかの番頭に訊いても要領を得なかった。若主人の与之助はこのごろ誰にも沙汰無しに、ふらりと何処へか出てゆくことが度々ある。きょうも宗吉が番屋へ引かれて行った後で、すぐに表へ出て行ったがやがて引っ返して来た。それから又そわそわと身支度をして何処へか出て行ったが、その行くさきは判らないとのことであった。
半七は肚《はら》のなかで舌打ちした。小僧のあげられたのに怖気《おじけ》がついて、与之助はどこへか影を隠したのではあるまいかとも疑われたので、彼は馬道へ又急いで行った。そこに住んでいる子分の庄太を呼んで、上州屋のお丸の出這入りをよく見張っていろと云い付けて帰った。
「親分、しようがねえ。お丸の奴はきのう出たぎりで今朝まで帰らねえそうです。両国の薬屋の伜もやっぱり鉄砲玉だそうですよ」
それは明くる朝、庄太から受け取った報告であった。自分らのうしろに暗い影が付きまとっているのを早くも覚って、男も女も姿を晦《くら》ましたのであろう。もう打ち捨てては置かれないので、半七は両国へ出張って表向きの詮議をはじめた。与之助の親たちや番頭どもを自身番へ呼び出して、一々きびしく吟味の末に、与之助は家の金五十両を持ち出して行ったことが判った。信州に親類があるので、恐らくそこへ頼って行ったのではあるまいかという見当も付いた。
「足弱《あしよわ》連れだ。途中で追っ付くだろう」
半七は庄太を連れて、その次の日に江戸を発った。
四
八月はじめの涼しい夜であった。
上州は江戸よりも秋風が早く立って、山ふところの妙義《みょうぎ》の町には夜露がしっとりと降《お》りていた。関戸屋という女郎屋のうす暗い四畳半の座敷に、江戸者らしい若い旅びとが、行燈《あんどう》のまえに生《なま》っ白い腕をまくって、おこんという年増《としま》の妓《おんな》に二の腕の血を洗ってもらっていた。
旅人はここらに多い山蛭《やまびる》に吸い付かれたのであった。土地に馴れない旅人はとかくに山蛭の不意撃ちを食って、吸われた疵口の血がなかなか止まらないものである。妙義の妓は啣《ふく》み水でその血を洗うことを知っているので、今夜の客も相方《あいかた》の妓のふくみ水でその疵口を洗わせていた。
「おまえさんの手は白いのね。まるで女のようだよ」と、おこんは男の腕を薄い紙で拭きながら云った。
「怠け者の証拠がすぐにあらわれた」と、男は笑っていた。「今夜はなんだか急に寒くなったようだ」
「そりゃあ此の通りの山の中ですもの。それにきょうは霧が深かったから、あしたは降るかも知れない」
「山越しに降られちゃあ難儀だ。お天気になるように妙義様へ祈ってくれ」
「いやさ」と、おこんも笑った。「山越しの出来ないように、あしたは抜けるほど降るがいい。妙義の山の女に吸い付かれたら、山蛭よりも怖ろしいんだから、そのつもりで腰を据えていることさ。ねえ、そうおしなさいよ」
「いや、そうは行かねえ。少し急ぎの道中だから」
「急ぎの道中なら坂本から碓氷《うすい》へかかるのが順だのに、わざわざ裏道へかかって妙義の山越しをするお客様だもの、一日や二日はどうでもいい」と、おこんは意味ありげに又笑った。
男はもう黙ってしまって、山風にゆれる行燈の火にその蒼白い顔をそむけながら、冷えた猪口《ちょこ》をちびりちびり飲んでいた。
「なにを考えているの、おまえさん」と、おこんは膝をすり寄せた。「あたしはおまえさんが可愛いから内証で教えてあげる。さっきおまえさんがこの暖簾《のれん》をくぐると、少しあとからはいって来た二人連れがあるのを知っているかえ」
男の顔はいよいよ蒼くなった。
「その二人はどうもお前さんの為にならないお客らしいから、その積りで用心おしなさいよ」
「よく教えてくれた。ありがたい」と、男は拝むようにしてささやいた。「じゃあ、もうここにうかうかしちゃあいられねえ。夜の更けないうちにそっと発《た》たしてくれ」
「ああ、よござんす。あたしがほかの座敷へ廻っている間に、この窓からそっとぬけ出して……。今のうちに荷物をよく纒めてお置きなさいよ」
この相談が廊下に忍んでいた庄太の耳にも洩れたので、彼はすぐに自分の座敷へ引っ返して半七にささやいた。
「女が味方をしているらしいから、油断すると逃がしますぜ」
「それじゃあ俺は外へ出ている。おめえはいい頃に座敷へ踏ん込め」
打ち合わせをして置いて、半七はそっと表へ出ると、眼のさきに支《つか》えている妙義の山は星あかりの下に真っ黒にそそり立って、寝鳥をおどろかす山風がときどきに杉の梢をゆすっていた。大きい杉を小楯にして、半七は関戸屋の二階に眼を配っていると、やがて竹窓をめりめりと押し破るような音が低くきこえて、黒い人影が二階の横手にあらわれた。影は板葺きの屋根を這って、軒先に突き出ている大きい百日紅《さるすべり》を足がかりに、するすると滑り落ちて来るらしかった。
「与之助。御用だ」と、半七はその影を捕えようとして駈け寄ると、影はあと戻りをして坂路を一散に駈け降りた。半七はつづいて追って行った。
杉林に囲まれた坂路をころげるように駈けてゆく与之助は、途中から方角をかえて次の坂路を駈け上がろうとするらしかった。半七はふと気がついた。この坂の上には黒門がある。妙義の黒門は上野の輪王寺に次ぐ寺格で、いかなる罪人でもこの黒門の内へかけ込めば法衣《ころも》の袖に隠されて、外からは迂濶に手がつけられなくなる。それに気がつくと、半七も少し慌てた。中仙道をここまで追い込んで来て、ひと足のところで黒門へ駈け込まれてしまっては何にもならない。彼は一生懸命に与之助のあとを追った。
逃げる者も勿論一生懸命である。与之助は暗い坂路を呼吸《いき》もつかずに駈けあがって行った。坂の勾配《こうばい》はなかなか急で、逃げる者も追うものも浸《ひた》るような汗になった。ふたりの距離はわずかに一間ばかりしか離れていないのであるが、半七の手はどうしても彼の襟首にとどかなかった。そのうちに長い坂ももう半分以上を越えてしまって、法衣の袖を拡げたような黒い門は、星の光りでおぼろげに仰がれた。門のなかには石燈籠の灯が微かに見えた。
半七はもう気が気でなかった。この坂一つを無事に越すか越さぬかは、与之助に取っても一生の運命の岐《わか》れ道であった。黒門の影がだんだんに眼のまえに迫って来るにしたがって、与之助も急いだ。半七もあせった。しかし与之助は運がなかった。かれは黒門から二間ほどの手前で、石につまずいて倒れてしまった。
「あのときには全く汗になりましたよ」と、半七老人は云った。「なにしろ、あの長い坂を夢中で駈け上がったんですもの、その翌朝は足がすくんで困りましたよ。そこで、だんだん調べてみると斯ういう訳なんです。前にも申し上げた通りそのお丸という女は顔に似合わない、質《たち》のよくない女で、つまり今日《こんにち》でいう不良少女のお仲間なんでしょう。自分の奉公している上州屋の息子は勿論、手あたり次第に大勢の男にかかり合いを付けていて、両国の薬種屋の息子とも情交《わけ》があったんです。そのうちに上州屋の息子は東山堂の娘を見そめて、三百両の支度金で嫁に貰おうということになったので、お丸は自分のふしだらを棚にあげて、ひどくそれをくやしがって
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング