訊いた。
「兄さん。この頃は忙がしいんですか」
「むむ、たいしてむずかしい御用もねえが、広徳寺前にちょっとしたことがあるから、これからそっちへ行って見ようかと思っている」
「広徳寺前……。舐め筆の娘じゃないの」
「おまえ知っているのか」
「あの娘は姉妹とも三味線堀のそばにいる文字春さんという人のところへお稽古に行っていたんです。妹はまだ行っているかも知れません。その姉さんの方が頓死したというんで、あたしもびっくりしました。毒を飲んだというのはほんとうですか」
「そりゃあほんとうだが、自分で飲んだのか、人に飲まされたのか、そこのところがまだはっきりとおれの腑に落ちねえ。おまえ、その文字春という師匠を識っているなら、そこへ行って妹のことを少し訊いて来てくれねえか。妹はどんな女だか、なにか情夫《おとこ》でもあるらしい様子はねえか、東山堂の親達はどんな人間か、そんなことを判るだけ調べて来てくれ」
「よござんす。お午過ぎに行って訊いて来ましょう」
「如才《じょさい》もあるめえが、半七の妹だ。うまくやってくれ」
「ほほほほほ。あたしは商売違いですもの」
「そこを頼むんだ。うまく行ったら鰻ぐらい買うよ」
 妹に頼んで半七はそこを出ると、どこの店でももう日よけをおろして、残暑の強い朝の日は蕎麦屋の店さきに干してあるたくさんの蒸籠《せいろう》をあかあかと照らしていた。
 徳法寺をたずねて住職に逢うと、住職はもう七十くらいの品のいい老僧で、半七の質問に対して一々あきらかに答えた。徒弟の善周は船橋在の農家の次男で、九歳《ここのつ》の秋からこの寺へ来て足かけ十二年になるが、年の割には修行が積んでいる。品行もよい。自分もその行く末を楽しみにしていたのに、なんの仔細でこんな不慮の往生を遂げたのか一向判らない。無論に書置もない、毒薬らしい物もあとに残っていない。したがって詮議のしようもないのに当惑していると、老僧は白い眉をひそめて話した。
 筆屋の娘との関係については、かれは絶対に否認した。
「なるほど、近所ずからの事でもあれば、筆屋の店に立ち寄ったこともござろう。娘たちと冗談ぐらいは云ったこともござろう。しかし娘といたずら事など、かけても有ろう筈はござらぬ。それは手前が本尊阿弥陀如来の前で誓言《せいごん》立てても苦しゅうござらぬ。たとい何人《なんぴと》がなんと申そうとも、左様の儀は……」
 立派に云い切られて、半七も躊躇した。住職の顔色と口振りとに何の陰影もないらしいことは、多年の経験で彼にもよく判っていた。それと同時に、心中の推定が根本からくつがえされてしまうことを覚悟しなければならなかった。彼は更に第二段の探索に取りかかった。
「いかがでございましょうか。その善周さんという人のお部屋を、ちょっと見せていただく訳にはまいりますまいか」
「はい。どうぞこちらへ」
 住職は故障なく承知して、すぐに半七を善周の部屋に案内した。部屋は六畳で、そこには二十二三の若僧と十五六の納所とが経を読んでいたが、半七のはいって来たのを見て、丸い頭を一度に振り向けた。
「ごめん下さい」と、半七は会釈《えしゃく》した。ふたりの僧は黙って会釈した。
「善周さんのお机はどれでございます」
「これでございます」と、若僧は部屋の隅にある小さい経机を指さして教えた。机の上には折本の経本が二、三冊積まれて、その側には小さい硯箱が置いてあった。
「拝見いたします」
 一応ことわって、半七は硯箱の蓋をあけると、箱のなかには磨り減らした墨と、二本の筆とが見いだされた。筆は二本ながら水筆《すいひつ》で、その一本はまだ新らしく、白い穂の先に墨のあとが薄黒くにじんでいるだけであった。半七はその新らしい筆をとって眺めた。
「この筆はこの頃お買いなすったんでしょうねえ。御存じありませんか」
 それは善周が死んだ前日の夕方に買って来たものらしいと若僧は云った。いつも東山堂で買うのであるから、それも無論に同じ筆屋で買って来たのであろうと彼は又云った。半七は更にその筆の穂を自分の鼻の先へあてて、そっとかいでみた。
「この筆を暫時《しばらく》拝借して行くわけにはまいりますまいか」
「よろしゅうござる。お持ちください」と、住職は云った。
 その筆を懐紙につつんで、半七は部屋を出た。
「善周さんのお葬式《とむらい》はもう済みましたか」と、彼は帰るときに住職に訊いた。
「きのうの午すぎに検視を受けまして、暑気の折柄でござれば夜分に寺内へ埋葬いたしました」
「左様でございますか。いや、これはどうも御邪魔をいたしました」
 寺を出ると、半七はすぐに東山堂へ行った。娘の葬式はゆうべの筈であったが、俄かに検視が来たために刻限がおくれて、今朝あらためて、橋場の菩提寺へ送ることになったので、きょうは勿論に商売を休んで、店の戸は半分おろしてあった。戸のあいだから覗いて見ると、小僧の一人がぼんやりと坐っていた。
「おい、おい。小僧さん」
 半七は外から声をかけると、小僧は入口へ起って来た。
「皆さんはお送葬《とむらい》からまだ帰りませんかえ」
「まだ帰りません」
「小僧さん。ちょいと表まで顔を貸してくださいな」
 小僧は妙な顔をして表へ出て来たが、かれは半七の顔を思い出したらしく、急に形をあらためて行儀よく立った。
「ゆうべは騒がせて気の毒だったな」と、半七は云った。「ところで、お前に少し訊きたいことがあるんだが、一昨日《おととい》か一昨々日《さきおととい》頃、この店へ筆を取り換えに来た人はなかったかえ。この水筆《すいひつ》だ」
 ふところから紙につつんだ水筆を出してみせると、小僧はすぐにうなずいた。
「ありました。おとといのお午過ぎに若い娘が取り換えに来ました」
「どこの子だか知らねえか」
「知りません。この筆を買って帰ってから、一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《いっとき》ほど経って又引っ返して来て、穂の具合が悪いからほかのと取り換えてくれと云って、ほかのと取り換えて貰って行きました」
「ほかには取り換えに来た者はねえか」
「ほかにはありませんでした」
「その娘は幾つぐらいの子で、どんな装《なり》をしていた」
「十七八でしょう。島田髷に結って、あかい帯をしめて、白い浴衣《ゆかた》を着ていました」
「どんな顔だ」
「色の白い可愛らしい顔をしていました。どこかの娘か小間使でしょう」
「その娘は今まで一度も買いに来たことはねえか」
「さあ、どうも見たことはないようです」
「いや、ありがとう」
 小僧に別れて、浅草の方角へ足をむけると、半七は往来で源次に出逢った。
「親分。舐め筆の娘はどっちも堅い方で、これまで浮いた噂はなかったようです」と、源次は摺り寄ってささやいた。
「そうか。時に丁度いいところで逢った。おめえこれから浅草へ行って、庄太にも手を貸してもらって、上州屋にいる奉公人の身許をみんな洗って来てくれ。男も女も、みんな調べるんだぜ。いいか」
「判りました」
「じゃあ、おめえに預けて俺は帰るぜ。大丈夫だろうな」
「大丈夫です」
 それから二、三軒用達しをして、半七は神田の家へ帰った。近所の銭湯で汗を流して来て、これから夕飯を食おうとするところへ、お粂が来た。
「行って来ましたよ」
「やあ、御苦労。そこでどうだ」
「文字春さんのところへ行って訊きましたが、舐め筆の娘には姉妹ともに悪い噂なんぞちっとも無いそうです。親達も悪い人じゃあ無いようです」
 それは源次の報告と一致していた。心中の事実は跡方もないに決まってしまった。

     三

「でね、兄さん。文字春さんからいろいろの話を聴いているうちに、あたし少し変だと思うことがあるんですよ」と、お粂は団扇《うちわ》を軽く使いながら云った。
「どんなことだ」
「妹のお年ちゃんの方は今でも毎日文字春さんのところへ御稽古に来るんですが、なんでも先月頃から五、六度お年ちゃんが来て稽古をしているのを、窓のそとから首を伸ばして、じっと内を覗いている娘があるんですって」
「十七八の、色白の可愛らしい娘じゃあねえか」と、半七は喙《くち》を容れた。
「よく知っているのね」と、お粂は涼しい眼をみはった。「その娘はいつでもお年ちゃんの浚《さら》っている時に限って、外から覗いているんですって。変じゃありませんか」
「それは何処の娘だか判らねえのか」
「そりゃあ判らないんですけれど、ほかの人の時には決して立っていたことが無いんだそうです。なにか訳があるんでしょう」
「むむ。訳があるに違げえねえ。それでおれも大抵判った」と、半七はほほえんだ。
「もう一つ斯ういうことがあるんです。文字春さんの家の近所に馬道の上州屋の隠居所があるんです。あのお年ちゃんという子は、上州屋から容貌《きりょう》望みで是非お嫁にくれと云い込まれているんだというじゃありませんか。その話はなんでも先月頃から始まったんだということです。ねえ、その先月頃から文字春さんの家のまえに立って、窓からお年ちゃんを覗いている女があるというんですから、その娘はきっと上州屋の隠居所へ来る女で、そっとお年ちゃんを覗いているんだろうと思うんです。文字春さんもそんなことを云っていました。けれども、考えようによっては、それがいろいろに取れますね」
「そこでお前はどう取る」と、半七は笑いながら訊いた。
 その娘は上州屋の奉公人で、三味線堀近所の隠居所へときどき使にくるに相違ないとお粂は云った。自分の邪推かは知らないが、ひょっとすると其の娘は上州屋の息子となにか情交《わけ》があって、今度の縁談について一種の嫉妬《ねたみ》の眼を以てお年を窺っているのではあるまいかと云った。
「なかなか隅へは置けねえぞ」と、半七は又笑った。「どうだい。いっそ常磐津の師匠なんぞを止めて御用聞きにならねえか」
「ほほ、随分なことを云う。なんぼあたしだって、撥《ばち》の代りに十手を持っちゃあ、あんまり色消しじゃありませんか」
「ははは、堪忍しろ。それからどうだと云うんだ」
「もういやよ。あたしなんにも云いませんよ。ほほほほほほ。あたしもう姉さんの方へ行くわ」
 お粂は笑いながら女房のいる方へ起ってしまった。冗談半分に聞き流していたものの、妹の鑑定はなかなか深いところまで行き届いていると半七は思った。自分が源次に云いつけて、上州屋の奉公人どもの身許《みもと》をあらわせたのも、つまりはそれと同じ趣意であった。そして文字春の窓をたびたびのぞいていた娘と、東山堂へ筆を取り換えに来た娘と、その年頃から人相まで同一である以上、自分の判断のいよいよ誤らないことが確かめられた。半七は生簀《いけす》の魚を監視しているような心持でその晩を明かした。
 あくる朝になって、源次が来た。その報告によると、上州屋の奉公人は番頭小僧をあわせて男十一人、仲働きや飯炊きをあわせて女四人である。この十五人の身許を洗うにはなかなか骨が折れたが、馬道の庄太の手をかりて、まず一と通りは調べて来たと云った。男どもの方は後廻しにして、半七は先ず女の方のしらべを訊くと、仲働きはお清、三十八歳。お丸、十七歳。台所の下女はお軽、二十二歳。お鉄、二十歳というのであった。
「このお丸というのはどんな女だ」
「芝口の下駄屋の娘で、兄貴は家の職をしていて、弟は両国の生薬屋《きぐすりや》に奉公しているそうです」と、源次は説明した。
「よし、判った。すぐにその女を引き挙げなければならねえ」
「へえ、そのお丸というのがおかしいんですかえ」
「むむ、お丸の仕業《しわざ》に相違ねえ。弟が薬種屋に奉公しているというなら猶《なお》のことだ。よく考えてみろ。舐め筆の娘の死んだ日にお丸そっくりの女が筆を買いに来て、一|※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《とき》ばかり経って又その筆を取り換えに来た。そこが手妻《てずま》だ。取り換えに来たときに、筆の穂へなにか毒薬を塗って来たに相違ねえ。そうして、ほかの筆と取り換えて、その筆を置いて行ったんだ。勿論、なめ筆の評判を知っての上で巧んだことに決まっている。娘はそれを知らねえで、その筆を売る時にいつも
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