「わたくしが先ず住職の覚光に逢って光明弁天堂の善昌という尼がこの寺内にいる筈だから引き渡してくれと云うと、坊主も最初はしら[#「しら」に傍点]を切っていましたが、そんなら墓地の新らしい墓を掘らせてくれと云うと、坊主ももう真っ蒼になりました。善昌も覚悟したとみえて、この掛け合いのあいだに裏口からぬけ出そうとするところを、そこに張り込んでいた熊蔵に取り押えられました。こいつも強情で、最初はなんとか彼とか云い抜けようとしていました。木像に油の匂いがする、死骸の手にも油の匂いがする。墓地からはお国の首が出るというのですから、もう逃がれようはありません。とうとう恐れ入って白状しました。善昌は無論に獄門です。覚光も一旦は入牢《じゅろう》申し付けられ、日本橋に晒《さら》しの上で追放になりました。
そこで、問題の蝶合戦ですが、善昌も覚光という相手が出来て、それに入れ揚げる金が要るので、なにか金儲けの種をこしらえようと思っているところへ、井伊大老の桜田事件などが出来《しゅったい》して、世間がなんだかざわ[#「ざわ」に傍点]付いているので、そこへ付け込んで今年もまた大騒動があるなどと触れ散らかし、祈祷料でも巻きあげる算段をしていると、丁度かの蝶合戦があったので、お有難連はすっかり煙《けむ》にまかれて、これはきっと何かの前兆だということになったので、善昌は万事思う壺にはまって内心大喜びでいると、それがお国には面白くない。善昌が金儲けをすれば、きっと覚光のところへ運んで行くだろうと思うと、いよいよ妬けて堪まらないので、本尊の木像をかつぎ出すやら、坊主と手を切れと責めるやら、大騒ぎをやった挙げ句の果てが、更にこんな大騒ぎを仕出かしてしまったんです」
「その弁天様はどうなりました」と、わたしは訊いた。
「善昌の仕置がきまると、弁天堂は取り毀されましたが、始末に困ったのはその木像で、かりにも弁天様と名の付くものをどうすることも出来ない。さりとて引き取る者もないので、とうとう評議の上で川へ流すことになりました。それが流れて行くときに一匹の白い蛇が巻き付いていたという評判で、それは善昌の魂だなどと云い触らす者もありましたが、なに、それはみんな嘘の皮で、むかしの人はややもすると斯ういうことを云い触らす。又すぐにそれを信用する。畢竟《ひっきょう》それだから善昌の尼などの食いものになったのでしょうね。おや、雨の音がいつの間にか止んだようです」
老人は起って縁側の雨戸をあけると、わたしがこの長い話に聴き惚れているあいだに、雨はとうに晴れたとみえて、小さい庭にはびっくりするような明るい月の光りがさし込んでいた。
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(二)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年3月20日初版1刷発行
入力:tat_suki
校正:ごまごま
1999年8月29日公開
2005年12月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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