二
蝶の最も出盛ったのは、朝の四ツ時(午前十時)頃から昼の八ツ時(午後二時)頃までで、八ツを過ぎるころから無数の蝶の群れもだんだんに崩れ出して、鐘撞堂のゆう七ツ(午後四時)がきこえる頃には、消えるように何処へか散り失せてしまった。水に落ちたものは流れもあえずに、夏の日の暮れ果てるまで竪川を白く埋めて、涼みがてらの見物を騒がせていたが、あくる朝は一匹もその姿をとどめなかった。
「弁天さまのお告げに嘘はない。おそろしいことでござります」
善昌は再び信者たちに云い聞かせた。信者たちももう疑う余地はないので、善昌と相談の上で、七月の朔日《ついたち》から盂蘭盆《うらぼん》の十五日まで半月の間、弁天堂で大護摩《おおごま》を焚くことになった。護摩料や燈明料は云うまでもなく、そのほかにもいろいろの奉納物が山のように積まれた。
こうして、はじめの七日は無事に済んだが、たなばた祭りもきのうと過ぎた八日の朝になって、善昌は突然に仏前の御戸帳《みとちょう》をおろした。今までは何人《なんぴと》にも拝ませていた光明弁天の尊像をむらさきの帳《とばり》の奥に隠してしまったのである。これは夢枕に立った弁財天のお告げで、今後百日のあいだは我が姿を人に見せるな、その間にわざわいの日は過ぎてしまうとのことであったと、善昌は説明した。そうして引きつづいて護摩を焚き、祈祷を行なっていたのであるが、それから三日と過ぎ、四日と経つうちに、誰が云うともなしにこんな噂がまた伝わった。
「御戸帳のなかは空《から》だ。弁天様はなくなってしまったらしい」
信者のなかでも有力の三、四人がその噂を気に病んで、諸人のうたがいを解くために、たとい一と目でもいいから御戸帳の奥を覗かせてくれと交渉したが、善昌は頑として肯《き》かなかった。本尊の秘仏を厨子《ずし》に納めて、何人にも直接に拝むことを許さない例は幾らもある。おまえ方のうちに浅草観世音の御本体を見た者があるか、それでも諸人は渇仰《かつごう》参拝するではないか。百日のあいだは我が姿を人にみせるなというお告げにそむいて、みだりに奥をうかがう時は、仏罰によって眼が潰れるか、気が狂うか、どんなわざわいを蒙らないとも限らない。おまえ方はおそろしい禍いを避けるために、護摩を焚き、祈祷を行なっていながら、却って仏罰を蒙るようなことを仕出かして、どうする積りか。尊像のあるか無いかは百日を過ぎれば自然に判ることである。それを疑うものは参拝を止めたらよかろうと、彼女はきっぱりと云い切った。
こう云われると一言もないので、誰も彼もみな黙ってしまった。そうして、日々の祈祷は今までの通りに続けられたが、尊像紛失のうたがいはまだ全く消えないで、信者のあいだにはいろいろの噂が伝えられているうちに、いよいよ盂蘭盆の十五日が来た。祈祷はこの日限りでとどこおりなく終った。
あくる十六日の朝になっても、弁天堂の扉《と》はあかなかった。日々の祈祷の疲れで、きょうは善昌さんも朝寝坊をしているのであろうと、近所の者も初めのうちは怪しまなかったが、やがて午《ひる》ごろになっても扉があかないので、不思議に思って裏口へまわって窺うと、水口《みずぐち》の戸には錠がおろしてないとみえて、自由にさらりとあいた。幾たびか声をかけても返事がないので、近所の二、三人が思い切って薄暗い奥へはいると、どこにも善昌のすがたが見えなかった。かれは六畳の小座敷に寝起きしている筈であるが、そこには蚊帳さえも釣ってなかった。
ひとり者であるから、今までにも家をあけて出ることは珍らしくなかったが、午頃までも表の扉をあけないというのは不思議である。それを聞き伝えて、信者の誰かれも集まって来て、大勢が立ち会いの上で堂内をあらためたが、どこも綺麗に片付いていて、別に怪しむべき形跡もなかった。そのうちに一人が云い出した。
「善昌さんはもしや駈け落ちをしたのではあるまいか」
弁財天の尊像紛失はやはり事実で、かれはその申し訳なさに、十五日間の祈祷料や賽銭のたぐいを掻きあつめて、どこへか駈け落ちしたのではあるまいかというのである。或いはそんなことが無いとも云えない。それでなくとも、このあいだから諸人の疑問になっているので、大勢は立ち寄って恐る恐るその帳《とばり》をあけると、かの尊像のおん姿は常のごとく拝まれたので、一同は案に相違した。善昌の云ったのは嘘でなかった。その疑いが解けると同時に、それならばなぜ善昌はその姿をかくしたかという新らしい疑いが更に深くなった。
弁天堂は信者の寄進によって善昌が作りあげたのであるが、こういう事件が起った以上、この露路のなかを差配している家主にも一応ことわって置かなければならないというので、誰かがそれを届けにゆくと、家主もとりあえず出て来た。そこで相談の上あらためて家捜《やさ
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