町《まつざかちょう》の弁天堂へ駈けつけて、おうかがいを立てるのもあった。松坂町はかの吉良上野介の屋敷のあった跡で、今はおおかた町屋となっている。その露路の奥に善昌という尼が住んでいる。以前は小鶴といって、そこらを托鉢の比丘尼《びくに》であったが、六、七年前から自分の家に弁財天を祭って諸人に参拝させることにした。本所には窟《いわや》の弁天、藁づと弁天、鉈《なた》作り弁天など、弁天の社《やしろ》はなかなか多いのであるが、かれが祀《まつ》っているのは光明弁天というのであった。かれ自身の云うところによれば、ある夜更けに下谷《したや》の御成道《おなりみち》を通ると、路ばたの町屋の雨戸の隙間からただならぬ光りが洩れているので、不思議に思って覗いてみると、それは古道具屋で、店先にかざってある木彫《きぼ》りの弁天の像から赫灼《かくやく》たる光明を放っていた。いよいよ不思議を感じて帰って来ると、その夜の夢にかの弁財天が小鶴の枕もとにあらわれて、我を祀って信仰すれば、諸人の災厄をはらい、諸人に福運を授けると告げたので、かれは翌朝早々に下谷へ行ってその尊像を買い求めて来たのである。その話が世間に伝わって、それを拝みに来る者がだんだんに殖えて来た。
 小鶴はその名を善昌とあらためた。今までは長屋同様の小さい家であったのを建て換えて、一つの弁天堂のように作りあげた。かれは托鉢をやめて、堂守《どうもり》のような形でそこに住んでいたが、参詣者の頼みに因《よ》っては一種の祈祷のようなこともした。身の上判断もした。彼女がこうして諸人の信仰や尊敬をうけるようになったのは、弁財天の霊験あらたかなるに因《よ》ること勿論で、二、三年前にもこういう実例があった。ある日の午後、独身者《ひとりもの》の善昌が近所へ用達しに出ると、その留守へやはり近所のお国という女が参詣に来た。
 ここでお国をおどろかしたのは、一人の若い男が仏前に倒れ苦しんでいることであった。男は口からおびただしい血を吐いて、虫の息で倒れている。お国はびっくりして声をあげると、近所の人たちも駈け集まって来て、一体どうしたことかと詮議したが、男はもう口を利くことが出来なかった。彼はそこにころげている餅や菓子を指さしたままで息が絶えた。それからだんだん調べてみると、かれは賽銭箱の錠をこじあけて賽銭をぬすみ出したのである。そればかりでなく、仏具のなかでも金目《かねめ》になりそうな物を手あたり次第にぬすみ取り、風呂敷につつんで背負い出そうとしたが、それでもまだ飽き足らないで、仏前にそなえてある餅や菓子を食い、水を飲んだ。そうして何かの毒にあたって死んだらしいということが判った。
 取りあえずそれを善昌の出先きへ報らせてやると、かれも驚いて帰って来た。かの男はどうして死んだのか判らないが、仏前の餅や菓子に毒のはいっている筈はないと善昌は云った。かれは諸人のうたがいを解くために、かれらの見ている前でその餅や菓子を食ってみせたが、別になんにも変ったことはなかった。そんならかの男はなぜ死んだか。かれは盗人で、賽銭をぬすみ、仏具をぬすみ、あまつさえ仏前の供物《くもつ》まで盗み啖《くら》ったので、たちまちその罰を蒙って供物が毒に変じたのであろうと、諸人は判断した。かれらは今更のように弁財天の霊験あらたかなるに驚嘆して、信心いよいよ胆《きも》に銘じた。その噂がまた世間にひろまって、信者は以前に幾倍するようになった。諸方からの寄進も多分にあつまって、弁天堂は再び改築されたので、狭い露路の奥にありながらも、その赫灼たる燈明のひかりは往来からも拝まれて、まことに光明弁天の名にそむかないように尊く見られた。
 その善昌が今年の三月、弁財天のお告げであると称して、一種の予言めいたことを信者たちに云い聞かせた。今年はおそるべき厄年であって、井伊大老の死ぐらいは愚かなことであり、五年前の大地震、四年前の大風雨《おおあらし》、二年前の大コロリ、それにも増したる大きいわざわいが江戸中に襲いかかって来るに相違ない。但しそれには必ず何かの前兆があるから、いずれも用心を怠ってはならぬというのであった。付近の信者はみなそれを信じた。大地震、大風雨、大コロリ、黒船騒ぎ、大老|邀撃《ようげき》、それからそれへと変災椿事が打ちつづいて、人の心が落ち着かないところへ、又もやこの恐ろしい御託宣を聴かされたのであるから、かれらの胸に動悸の高まるのも無理はなかった。
 かならず何かの前兆があると善昌は云った。その警告におびえている彼等の眼のまえに、不思議の蝶合戦が起ったのである。気の早い者はあわてて弁天堂へかけ着けると、仏前の燈明はすべて消えていた。幾匹かの白い蝶がどこからか飛んで来て、燈明の火を片端から消してしまったのであると、善昌は不思議そうに話した。

     
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