いるのを早くも覚ったとみえまして、細い声でもし[#「もし」に傍点]と呼んだそうでございます。お通はぞっ[#「ぞっ」に傍点]として黙って居りますと、その女は幽霊のような痩せた手をあげてお通を招いたそうで……。もう堪まらなくなって、あわてて土蔵の扉をしめ切って一目散《いちもくさん》に逃げて帰りました。大蛇《だいじゃ》が口をきく筈がありません。きっと幽霊に相違ないとお通は急におぞ毛だって、それからはもう土蔵へ行くのが忌《いや》になりましたが、自分の役目ですから仕方がございません。その後もこわごわ三度の膳を運んで居りました。しかしだんだん考えてみると、幽霊が飯を食う筈もありません。怖いもの見たさが又手伝って、天気のいい日に又そっと覗いてみますと、うす暗い隅の方から大きい蛇――およそ一丈もあろうかと思われる薄青いような蛇が、大きい眼をひからせて蜿《のた》くって来るようです。お通はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちすくんでいますと、二階の梯子が又みしりみしりという音がして、なにか降りて来るようです。よく見ると、それはこのあいだの幽霊のような女で……。お通は堪まらなくなって又逃げ出してしまいました」
「だいぶ怪談が入り組んで来ましたね」
「それでもお通はまだ辛抱している積りであったようですが、この頃たびたび土蔵のなかを覗きに行くことが寮番の夫婦に知れまして、なんでも厳しく叱られて、おまえも縛って土蔵のなかへほうり込んでしまうとか嚇《おど》かされましたそうで……。それからいよいよ怖くなって、いっそ逃げ出そうかと思っても、夫婦が厳重に見張っていて一と足も外へは出しません。それでも隙をみて、短い手紙をかいて、店の方から来た人にたのんで、姉のところへ届けて貰ったのだそうでございます。お徳もその話を聞いてびっくりしましたが、すぐにどうするという訳にも行きませんので、まあ、もう少し辛抱しろとくれぐれも云い聞かせて、怱々に帰って来ましたようなわけで……。前にも申し上げました通り、ひどく妹思いの女だもんでございますから、どうしたらよかろうと云って顔の色を変えて心配して居ります。桂庵に掛け合って貰って暇を取るのが勿論順道でございますが、三年以上という証文がはいって居りますから、きっとなにか面倒なことを云うだろうと存じます。といって、このままに打っちゃって置くのも可哀そうでございますし、わたくし共にもいい知恵が浮かびませんので、お忙がしいところを御相談に出ましたのでございますが、まあ、これはどう致したものでございましょう」
半七は眼を薄くつむって考えていたが、やがてしずかにうなずいた。
「ようございます。なんとか致しましょう。わたしから桂庵の方へ掛け合ってあげてもいいが、ともかくも証文を反古《ほご》にするというのは穏かでない行き方ですから、なんとかほかの段取りにしてみましょう。そのお通という娘のことばかりでなく、こりゃあ私の方でも少し調べて見にゃあならねえことですから、まあ、私に任せてください。桂庵は相模屋ですね」
「外神田の相模屋でございます」
「お徳には心配するなと云ってください。二、三日のうちに何とかしましょうから」
「なにぶんお願い申します」
くれぐれも頼んで、平兵衛は帰った。
二
午飯《ひるめし》を食ってから半七は三河町の家を出て、外神田の相模屋をたずねると、桂庵でも彼の商売を知っているので、素直に奉公人の出入り帳を出してみせた。この正月の末にお通を目見得にやった奉公先は向島の寺島村の寮で、この寮の主人は霊岸島の米問屋の三島であることが判った。
この頃は諸式|高直《こうじき》のために、江戸でもときどきに打毀《うちこわ》しの一揆が起った。現にこの五月にも下谷神田をあらし廻ったので、下町《したまち》の物持ちからはそれぞれに救い米の寄付を申し出た。そのときに彼《か》の三島では商売柄とはいいながら、一軒で白米二千俵の寄付を申し出て世間を驚かしたことを、半七はまだ耳新しく記憶していた。その三島の寮が向島の奥にあって、そこに何かの秘密がひそんでいるとすれば、猶更うっちゃって置くことは出来ない。半七は一旦自分の家へ帰って、子分の松吉を呼んだ。
「おい、ひょろ松。おめえ御苦労でも霊岸島へ行って、三島の様子をちょっと調べて来てくれ。あすこの家《うち》に年頃の娘はねえか」
「あすこの娘なら知っています。おきわと云って近所でも評判の小町娘《こまちむすめ》で、もう十九か二十歳《はたち》になるでしょう」
「その娘はどうした。家にいるか」
「それがなんでも三年まえの今時分でしたろう。店の若い者と駈け落ちをしてしまって、今にゆくえが知れねえそうです」と、松吉は云った。
「駈け落ちの相手はなんという野郎だ」
「そりゃあ知りません」
「そいつを調べてくれ。そ
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