」と、店で姫糊《ひめのり》を煮ている婆さんが教えた。
「勘次さんは毎日商売に出ていますかえ」
「なんだか知りませんけれども、この十日《とおか》ばかりはちっとも商売に出ないで、おかみさんと毎日喧嘩ばかりしているようです」
「じゃあ、けさも家《うち》にいますね」
「いるでしょうよ。さっきから大きな声をしていましたから」と、婆さんは苦々《にがにが》しそうに云った。
「いや、ありがとう」
 あぶない溝板を渡りながら路地の奥へはいってゆくと、甲走《かんばし》った女の声がきこえた。
「へん、意気地もないくせに威張ったことをお云いでないよ。槍突きぐらいが怖くって、夜のかせぎが出来ると思うのかえ。おまえが盆槍《ぼんやり》で、向うが槍突きなら相子《あいこ》じゃないか。槍突きが出て来たら丁度いいから、富さんと二人でそいつを取っ捉まえて御褒美でもお貰いな、嬶《かかあ》を相手に蔭弁慶をきめているばかりが能《のう》じゃないよ。しっかりおしな」
 このあいだの晩、槍突きに出逢って以来、辻駕籠屋の勘次は怯気《おじけ》づいて商売を休んでいるらしかった。女房の悪態の途切れるのを待って、七兵衛はそっと声をかけた。
「ごめんなさい」
「誰ですえ」と、女房は八中《やつあた》りの尖った声で答えた。
「勘次さんはお家ですかえ」
 空駕籠を片寄せてある土間に立つと、長火鉢の前にあぐらをかいていた勘次が首をのばした。彼は三十四五の、背の低い、小ぶとりに肥った男で、こんな商売に似合わない、人のよさそうな顔をしていた。
「勘次はいますよ。こっちへおはいんなせえ」
「朝っぱらからお邪魔をします」と、七兵衛は上がり框に腰をかけた。「勘次さんというのはお前だね。話は早えがいい。おれは葺屋町の七兵衛と云って、十手をあずかっている者だが、すこしお前に訊きてえことがある」
「へえ」と、勘次は女房と顔を見あわせた。「なにしろ、親分。きたねえところですが、まあこっちへお上がんなすって下せえまし」
「親分。まあどうぞこちらへ……」
 女房は急にふくれっ面をやわらげて、しきりに内へ招じ入れようとするのを、七兵衛は手を振って断わった。
「まあ、いい。なにも構いなさんな。お客に来たんじゃねえ。そこで早速だが、お前はこのあいだ蔵前の通りで槍突きに出っ食わしたというじゃあねえか。いや、そりゃあまあ災難で仕方ねえが、その時にお前は変なお客を乗っけ
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