です。町家を軒別《けんべつ》にまわる町万歳は、乞食万歳などと悪口を云ったものでした。そういう訳ですから、万歳だけは山の手の方が上等でした。いや、その万歳について、こんな話を思い出しましたよ」
「どんなお話ですか」
「いや、坐り直してお聴きなさるほどの大事件でもないので……。あれは何年でしたか、文久三年か元治元年、なんでも十二月二十七日の寒い朝、神田橋の御門外、今の鎌倉|河岸《がし》のところに一人の男が倒れていました。男は二十五六の田舎者らしい風俗で、ふところに女の赤ん坊を抱いていた。それが、このお話の発端《ほったん》です」

 男は息が絶えていた。師走《しわす》の風の寒い一夜を死人のふところに抱かれていた赤児は、もう泣き嗄《か》れて声も出なかったが、これはまだ幸いに生きていた。つい眼と鼻のあいだの出来事であるから、検視のまだ下《お》りないうちに半七はすぐに其の場へ駈け付けてみると、死んだ男のからだには何も怪しい疵《きず》のあとは無かった。抱いている赤児にも別条はなかった。しかし半七をおどろかしたのは、その赤児が二本の鋭い牙《きば》をもっていることであった。赤児は生まれてからまだ二タ月か
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