逢ったことがあるようなことを云っていました」
「むむう。そりゃあいけねえ」と、兼吉は溜息をついた。「又来たのか」
 文字春は飛び上がって、兼吉の手をしっかりと掴んだ。彼女は唇をふるわせて訊いた。
「じゃあ、棟梁。おまえさん、あの娘を知っているのかえ」
「むむ。可哀そうに、お雪さんも長いことはあるめえ」
 文字春はもう声が出なくなった。かれは兼吉の手に獅噛《しが》み付いたままで、ふるえながら引き摺られて行った。

     二

 自分の家《うち》の前まで無事に送り届けて貰って、文字春は初めてほんとうに自分の魂を取り戻したような心持になった。彼女は自分を送って来てくれた礼心に、兼吉を内へ呼び込んで、茶でも一杯のんで行けと勤めた。彼女は小女《こおんな》と二人暮しであるので、すぐその小女を使に出して、近所へ菓子を買いにやりなどした。兼吉もことわり兼ねてあがり込むと、文字春は団扇《うちわ》をすすめながら云った。
「ほんとうに今夜はおかげさまで助かりました。信心まいりも的《あて》にゃあならない。あたしは余っぽど罪が深いのかしら。それにしても気になってならないのは……。あの娘が津の国屋へたずねて行
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